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2026.03.04 お悩み相談
【質問】地球上の命のために自分の命をいかすとはどういうことなのでしょうか?
【質問】
昨年の寺市で、「人間はどうして誕生したのだろう、何のために?」という問いに対して、それは結局考えてもわからない問いであって、そのことで頭を悩ますより、与えられたこの命をどういかせるか、それを考えるのがいいと教えていただきました。とても納得できて、今でもその言葉を日常で思い返すことがよくあります。
この地球上の命の為に、自分の命をいかすとはどういうことなのか、もう少し具体的に教えていただきたいです。
【回答】
ご質問ありがとうございます。前回の寺市も来ていただいたとのことで、感謝いたします。「地球上の命のために、自分の命をいかす」とは、とても大きな課題ですが、現代の世界の状況を見ても、喫緊の問題であると思います。仏教ではどう考えるのか、少し考えてみたいと思います。
お聞きになったことがおありだと思いますが、釈尊の基本的な教えの一つに、「諸行無常」という教えがあります。これは、すべてのものが変化していて、永遠なるものはない、という教えですが、ともすると、「命には限りがあるということで、切ないこと」だと受け取ってしまいがちです。
しかし「諸行無常」とは、「切ないこと」なのではありません。むしろそれは、私たちが大きな循環のなかにある、ということだと私は思います。私たちのからだやこころは、さまざまな要素によって組み立てられつつ、また分解し、吸収と排出を繰り返しており、循環のただなかにあります。循環のただなかで私たちは生まれ、循環のただなかで私たちは死にます。それは、自分の意志とは無関係でありながら、存在することの根本としてあります。それを仏教では、「縁起(つながりとして存在する)」「無自性(自分という固定された存在はいない)」「空(固定された存在がなく、すべてのつながりとして常に動きつつ存在する)」とも言うのです。重要なのは、この循環を、私たちは自分の知覚で捉えられない、ということです。海のなかにいると水が見えないように、循環のただなかでは循環が見えないからです。けれども私たちは、事実として循環のさなかにあり、循環そのものとして存在しています。私たちが呼吸をすることも循環であり、食物を食べ排出をすることも循環です。木々や植物が排出したものをとりこみ、私たちの排出が木々を育てます。つまりは、生きているだけで、呼吸をすることだけで、私たちは「地球上の命のために、自分の命をいかしてい」るといえるということです。私たちは存在しているだけで、「地球上の命のために自分の命をいかしている」のです。
けれども問題となるのは、この私たちの吸収と排出とが過度になったときに、地球上の循環のバランスをおかしくしてしまっているということです。私たちが自分の生活だけをまもり、それを便利であるように進化させると、ものごとの循環を自分たちの都合で早めたり遅くしたり、止めようとしたりします。このことがいろいろな災害を生むのです。たとえばプラスティックごみが問題となるのは、循環しないからです。プラスティックは細菌によって分解されず、紫外線で分解して小さな破片として残り、人体にも残留してしまいます(マイクロプラスティック)。これは私たちが便利な生活を追求した結果です。また、大規模な石油の使用は、代替するものを与えられないので、循環を阻害してしまっています。こうした循環を見ない生活が、結局私たち自身にも影響を及ぼしているといえるのです。循環を阻害しないような生き方を私たちはすべきだと思います。
2025.05.30 お悩み相談
【質問】仕事が落ち着いた今、先の見据え方が見つけられません
【質問】
仕事上で大きな目標を追いかけて働いていましたが、この歳になり、自分の毎日を顧みたときに、ふと「なんのためにここまで頑張っているのか」がわからなくなる瞬間があります。体力的な衰えなのか、子育てもある程度落ち着いた環境の変化なのか。はたまたそれとも違うものか、分かりませんが、疲労感や虚無感を感じ、これから先をどのように見据えたら良いか考えてしまいます。
【回答】
ご質問ありがとうございます。なるほど、これまでの仕事への熱意がなくなり、日々のはしばしに疲労感や虚無感を感じてしまう、ということですね。質問者さんは私と同世代でいらっしゃいますね。お気持ちよくわかります。
おそらく質問者さんは、人生を終点のほうから考え始められたのではないでしょうか。それまでは、誕生から子供へ大人へと、順を追った成長のなかで見ておられたご自身の人生を、あるときから不意に、逆から見られるようになったのでしょう。地位や富や名声をより多く得ていくことが人生の成功者であると思っていられたときとは逆に、自分がいくつで亡くなるか、体はいつまで動くか、それならばあと何年しかなくて、そのあいだ自分はどうしようかと、ご自身の人生を終点から見るようになると、地位や富や名声なども色あせて見え、こうしたことを追求して生きることが、なんとも空しくなってしまったのではないでしょうか。 これは一見無気力になってしまったように見えますが、実はよろこばしい変化とも言えます。それは質問者さんが、ご自分の生を生きることの真実に直面したということだからです。
私たちが生きることとは、自分の固有の体・こころ・歴史をもった人生をどう生きるかを追求することであり、それには、自分とはどのような生を歩み、どのような性格で、なにを行い、社会にどのように還元するかを考えることが必要です。その際、もっとも重要なのは、地位や富や名声の多寡でもって他人と比べながら評価するのではなく、外部的な評価軸に頼らないで自分を見るようにすることです。
そのうえで、やりたいこと、やるべきことを決めるのです。こうしたことを決めるときに、欲求からではなく、むしろ周りや社会に対してどのような奉仕ができるか、という点で考えるべきです。50年以上も社会に守られて受けてきた恩恵を、社会に対してどのように返すか、なにが返せるかという点を考えていかれれば、これからの人生を生きる新たな生き方が見えてくるのではないか、と思います。
こうしたご自身の生き方を見つめるとき、質問者さんは実は、仏教の教えに近づいているともいえます。ご自分のこれからの生き方を振り返る過程で、最初期のお経の一つである、中村元訳『真理のことば・感興のことば』(岩波文庫)をぜひ手にとってみてください。お釈迦さまが非常にわかりやすく示してくださっているお言葉に、いまの質問者さんに必要なことがらが見つかるのではないかと思っています。
2025.03.30 お悩み相談
【質問】進路について悩んでいます
【質問】
将来やりたいことがわかりません。それでも、文系や理系を選択したり、大人に近づくにつれて方向性を決めなければいけません。どのように決めていけば良いのでしょうか?
【回答】
ご質問ありがとうございます。質問者さんは10代の学生さんでいらっしゃるのですね。将来について、そんなにはっきりとしたビジョンなんかまだ持てないのに、文系か理系か、その他もろもろについて、周りは自分にどう生きるかを迫ってくる。どうしたらいいのか、というお悩みですね。なにやってもいいぞ、と言われるとかえって困ってしまいますよね。
私のことを言って恐縮ですが、私は将来やりたいことの前に、将来やらなければならないことがあった人間でした。お寺の子どもとして生まれたので、お寺を継ぐということが、目の前の義務としてあったのです。ちょうど相談者さんと正反対の状況であったわけです。やりたいことがわからず苦しい、ということはなかった半面、義務としての生き方が迫ってくる重圧をどうするかを考える毎日でした。義務から逃げることも考えましたが、逃げてもうまく生きられるようには思えませんでした。いろいろ考えた結果、義務つまりお寺の住職としてお坊さんをしながら、しかも同時に自分のやりたいことを探ることになりました。私は本を読み、それに対して考えたことを書き記すということをずっとやってきたので、こうしたことならお坊さんをしながらもできるのではないかと思いました。つまり、私の場合、やるべきことに沿うようにやりたいことを見つけ出したわけです。この方法はわりと成功していて、私はいまも、お寺の住職の義務感だけに押しつぶされることもなく、また自分の自由だけを身勝手に追求することでもなく、両方のバランスを取って生活でき、充実した人生を送れています。
私たちは、それぞれ異なった肉体的・心理的・社会的条件のもとに生まれます。その条件を重ねて見た時に、自分がすべきことが見える場合があります。ただしそれは、すべきことであって、したいことではありません。すべきことは、つらく、苦しく、したいことは、うれしく、面白い。私たちには、このどちらもが必要です。この両者のバランスを取ることが大事だということです。質問者さんの肉体的・心理的・社会的条件をご自分で少し客観的に見つめてみると、ご自分のやるべきことが見えてくるかもしれません。それは一種の義務であり、拘束です。それを破ったりズラしたりしたところに、多分あなたのやりたいことがあると思います。そしてここは大事な所ですが、やりたいことは、案外、やるべきことのすぐそばにあるものなのです。まずはやるべきことを探し、それを少しズラしてやりたいことを見つけてみてください。二つのバランスがうまくとれたときに、あなたらしい人生があると思うのです。ぜひあなただけの充実した人生を送ってください。
2025.02.20 お悩み相談
【質問】素直になれない自分を変えるにはどうしたら良いですか?
【質問】
自分は昔から頑固というか、人から言われることを素直に聞けないところがあります。自分ができていないことや直した方が良いところも、薄々自分でもわかっていて、周りの人の言うことももっともだと思いつつ、つい言われた時にムッとしてしまって、口から出てくる言葉は素直とは正反対のものになってしまいます。このような性格を変え、もっと柔軟に生きられたらと思いますが、どのように自分を変えていけば良いでしょうか?
【回答】
ご質問ありがとうございます。なるほど、頑固なところがあるのでもっと素直になりたい、といわれるのですね。頑固さのために、周りの方々とのトラブルなどが、これまでもあったのでしょうか。でも、私としては正直なところ、「べつに頑固でもいいじゃないですか、それもあなたの個性なんですから」と答えたいところです。頑固でなにが悪いのか、それを考えるところからはじめましょう。
頑固でこだわりが強い、ということ自体は別に否定されるべきことがらではないように思います。だれもが、自分が従事することがらについて、多かれ少なかれ、こだわりがあり、その意味ではだれもが頑固であるわけでしょう。そうしたこだわりつまり頑固さは、専門的に突き詰めていることがらがある、という証拠なのであり、むしろ尊重すべきことがらだと思います。でも、自分の頑固さだけを押し通して、相手の頑固さに対して認めないということであるとすると、会話などでも衝突するでしょうし、たしかにいろいろとトラブルが生じることが予想されます。もし相手との衝突やトラブルを避けたいのであれば、相手の言うことに対して、なるほど、こういう意見もあるのね、と気軽に聞いておきましょう。そのうえで、相手にも頑固なところがあるのを認めることが早道であるように思います。自分にも頑固なところがあるように、相手にも頑固なところがあるだろう、それはどこだろうか、と考えながら会話をするのです。そうすると、気持ちに余裕ができて、べつにご自身の頑固さを矯めることもなく、かなりのトラブルを回避できるように思います。
トラブルが回避できるなら、頑固さそのものを否定することはないと思います。頑固さとは個性だからです。だれもが個別性を持つ以上、だれもが頑固さを持っているともいえます。「相身互い(あいみたがい)」という言葉があります。だれもが持つそれぞれの頑固さに対して敏感に気づき、「ああ、自分も頑固だけど、この人もここらへんが頑固だな」と思い、気持ちに余裕をもってみてください。できれば「お互いしょうがないな、それが人間かな」と、自分や相手の頑固さを客観的に見て、腹を立てず、むしろすこし苦笑できるような余裕を持つことができれば、いいですね。
2025.01.30 お悩み相談
【質問】「老い」との向き合い方を教えてください
【質問】
最近、目は悪くなるし、足腰も弱くなってきたなぁと感じることが増えました。年を重ねることが嬉しい年齢でもなく、老いていく自分に対して前向きに捉えることができません。いずれ人は死ぬということもわかりますが、日々いろんなことができなくなっていくことを、どのように考えたら良いでしょうか。
【回答】
ご質問ありがとうございます。なるほど、老いてゆく自分に対して前向きになれないということですね。若い頃と比較して、つぎつぎといろいろなことが出来なくなる、能力が低下していく自分のありようが憂鬱だ、ということですね。私も今年になって目がひどく疲れ、困るようになりました。若い頃はもっとよく見えて、本も楽に読めたのに、ああ、と思います。お気持ち、非常によくわかります。
これは非常に難問で、どうお答えすればよいか、正直私にはわかりませんでした。そんなときに、中大輔『生きとってもしゃーないと、つぶやく96歳のばあちゃんを大笑いさせたお医者さん』(ユサブル2024)という本をたまたま手に取りました。これは、自身もがんを経験された船戸崇史さんというお医者さんが地域医療で、多くのがん患者を診ておられるありようを取材した本なのですが、そこで船戸医師は「睡眠・食事・加温・運動・笑い」を「がんに克つ五か条」として提唱し、自身も実践されています。しかし、取材された中さんが衝撃を受けたのは、このような「五か条」を唱えて多くの患者さんを診ている船戸さんがいっぽうではつぎのように言われた言葉に対してでした。「がん患者さんはよく„生きるか死ぬか”と考えます。でも考えてみてください。これはおかしな選択です。確かに、かんが治らなかったら死にます。でも、がんが治ってもいずれ死にます。人間は絶対に死ぬんです。死ななかった人は歴史上ひとりもいません。死亡率は100%です。だから„生きるか死ぬか”なんて選択はない。あるとしたら„どう生きるか”という選択しかないんです」。船戸医師が言われているのは、„生か死か”という選択は頭で考え出した偽の選択にすぎず、実際にあるのは、生と死とをどちらも含んだ„どう生きるか”という一択しかないということです。
この船戸医師の言葉はたいへんヒントになりました。私たちは、「若い」ときと「老いた」ときを比較してあれこれ思い悩むのですが、「若い」頃の自分が存在するのは思いの中だけで、比較対象は実際には存在しないのです。だから「若い」ときと「老いた」ときとを比較しても現実的な意味はありません。実際にあるのはこの「現在」だけであり、さらに、「現在」においては、私は最も「若く」「全盛期」を迎えていることになります(これからの自分の体力も知力と比較をすれば、現在が最も若く、元気で、強いことになるからです)。となれば「老い」とは、毎日毎日自己の「全盛期」を迎え続ける時期だといえます。毎日自分の「全盛期」を迎える日々と考えて、現在をわくわくと過ごしていきましょう。