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2025.02.20 お悩み相談

【質問】素直になれない自分を変えるにはどうしたら良いですか?

【質問】
自分は昔から頑固というか、人から言われることを素直に聞けないところがあります。自分ができていないことや直した方が良いところも、薄々自分でもわかっていて、周りの人の言うことももっともだと思いつつ、つい言われた時にムッとしてしまって、口から出てくる言葉は素直とは正反対のものになってしまいます。このような性格を変え、もっと柔軟に生きられたらと思いますが、どのように自分を変えていけば良いでしょうか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。なるほど、頑固なところがあるのでもっと素直になりたい、といわれるのですね。頑固さのために、周りの方々とのトラブルなどが、これまでもあったのでしょうか。でも、私としては正直なところ、「べつに頑固でもいいじゃないですか、それもあなたの個性なんですから」と答えたいところです。頑固でなにが悪いのか、それを考えるところからはじめましょう。
 頑固でこだわりが強い、ということ自体は別に否定されるべきことがらではないように思います。だれもが、自分が従事することがらについて、多かれ少なかれ、こだわりがあり、その意味ではだれもが頑固であるわけでしょう。そうしたこだわりつまり頑固さは、専門的に突き詰めていることがらがある、という証拠なのであり、むしろ尊重すべきことがらだと思います。でも、自分の頑固さだけを押し通して、相手の頑固さに対して認めないということであるとすると、会話などでも衝突するでしょうし、たしかにいろいろとトラブルが生じることが予想されます。もし相手との衝突やトラブルを避けたいのであれば、相手の言うことに対して、なるほど、こういう意見もあるのね、と気軽に聞いておきましょう。そのうえで、相手にも頑固なところがあるのを認めることが早道であるように思います。自分にも頑固なところがあるように、相手にも頑固なところがあるだろう、それはどこだろうか、と考えながら会話をするのです。そうすると、気持ちに余裕ができて、べつにご自身の頑固さを矯めることもなく、かなりのトラブルを回避できるように思います。
 トラブルが回避できるなら、頑固さそのものを否定することはないと思います。頑固さとは個性だからです。だれもが個別性を持つ以上、だれもが頑固さを持っているともいえます。「相身互い(あいみたがい)」という言葉があります。だれもが持つそれぞれの頑固さに対して敏感に気づき、「ああ、自分も頑固だけど、この人もここらへんが頑固だな」と思い、気持ちに余裕をもってみてください。できれば「お互いしょうがないな、それが人間かな」と、自分や相手の頑固さを客観的に見て、腹を立てず、むしろすこし苦笑できるような余裕を持つことができれば、いいですね。

2025.01.30 お悩み相談

【質問】「老い」との向き合い方を教えてください

【質問】
最近、目は悪くなるし、足腰も弱くなってきたなぁと感じることが増えました。年を重ねることが嬉しい年齢でもなく、老いていく自分に対して前向きに捉えることができません。いずれ人は死ぬということもわかりますが、日々いろんなことができなくなっていくことを、どのように考えたら良いでしょうか。

【回答】
ご質問ありがとうございます。なるほど、老いてゆく自分に対して前向きになれないということですね。若い頃と比較して、つぎつぎといろいろなことが出来なくなる、能力が低下していく自分のありようが憂鬱だ、ということですね。私も今年になって目がひどく疲れ、困るようになりました。若い頃はもっとよく見えて、本も楽に読めたのに、ああ、と思います。お気持ち、非常によくわかります。
 これは非常に難問で、どうお答えすればよいか、正直私にはわかりませんでした。そんなときに、中大輔『生きとってもしゃーないと、つぶやく96歳のばあちゃんを大笑いさせたお医者さん』(ユサブル2024)という本をたまたま手に取りました。これは、自身もがんを経験された船戸崇史さんというお医者さんが地域医療で、多くのがん患者を診ておられるありようを取材した本なのですが、そこで船戸医師は「睡眠・食事・加温・運動・笑い」を「がんに克つ五か条」として提唱し、自身も実践されています。しかし、取材された中さんが衝撃を受けたのは、このような「五か条」を唱えて多くの患者さんを診ている船戸さんがいっぽうではつぎのように言われた言葉に対してでした。「がん患者さんはよく„生きるか死ぬか”と考えます。でも考えてみてください。これはおかしな選択です。確かに、かんが治らなかったら死にます。でも、がんが治ってもいずれ死にます。人間は絶対に死ぬんです。死ななかった人は歴史上ひとりもいません。死亡率は100%です。だから„生きるか死ぬか”なんて選択はない。あるとしたら„どう生きるか”という選択しかないんです」。船戸医師が言われているのは、„生か死か”という選択は頭で考え出した偽の選択にすぎず、実際にあるのは、生と死とをどちらも含んだ„どう生きるか”という一択しかないということです。
 この船戸医師の言葉はたいへんヒントになりました。私たちは、「若い」ときと「老いた」ときを比較してあれこれ思い悩むのですが、「若い」頃の自分が存在するのは思いの中だけで、比較対象は実際には存在しないのです。だから「若い」ときと「老いた」ときとを比較しても現実的な意味はありません。実際にあるのはこの「現在」だけであり、さらに、「現在」においては、私は最も「若く」「全盛期」を迎えていることになります(これからの自分の体力も知力と比較をすれば、現在が最も若く、元気で、強いことになるからです)。となれば「老い」とは、毎日毎日自己の「全盛期」を迎え続ける時期だといえます。毎日自分の「全盛期」を迎える日々と考えて、現在をわくわくと過ごしていきましょう。

2022.12.28 お悩み相談

【質問】心配性で不安になる思考。どのようにしたら変えられますか?

【質問】
昔からとにかく心配性で、まだ何も起こってもいないのに起こったらどうしようと考え始めると不安になることが多く、それならやらない方が安全だと思ってやらずに終わってしまいます。楽観的に考えられたらいいなと思いますが、なかなかそう考えることができません。でも、自分が変わることができるのであれば心が軽くなるような生き方がしたいと思います。どのようにしたらそのような思考が変えられますか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。現代日本を代表する思想家のひとりに、柄谷行人(からたにこうじん)という人がいます。この柄谷氏が、東日本大震災のあと、反原発のデモを支持してつぎのように言っていました。「デモをしても社会は変えられない、という人がいる。しかしそれはちがう。デモは、デモをしない社会から、デモをする社会へと変えるのである」。これはつまりこういうことです。私たちは、デモを行うことと、そこでの主張の実現とをわけて考える必要がある。デモの主張は、たしかに容易には実現しないかもしれない。しかし、デモを行うことは、私たち自身を、デモを行わなかった市民から、行う市民へと変えるのであり、自己自身の変容として、社会の変革を可能にする、と言っているのです。

 突拍子もない発想かもしれませんが、ご質問を読んでいて、私はこのことを思い出しました。質問者さんは、ちょうど、デモの主張の実現がむずかしいために、デモそのものをあきらめる、私たち日本人のありようと似ていると感じました。なにかを行おうとするとき、それを達成するまでの困難さを考えて、腰が引けてしまう。それは私も含めた日本人の政治への態度そのものといえます。けれども行為の結果とは、目標の達成よりも、まずは、その行為をしない自分から、する自分に、自分自身が変化するところにあるのではないか。そこを見なければならない。柄谷氏はそう言っています。たとえばもし質問者さんが、書道を始めたいと考えるなら、それによって実際に字がうまくなり、進級し、展覧会などに入選するといった結果ではなく、定期的に筆を持ち続け、半紙に向かって書き続ける自分へと変化するそのことを見るべきなのだということです。結果はたしかにすぐにはやってこないでしょうが、一方の、「する自分」への変化は、書道を始めたとたん、すぐやってきます。それは、考える自分から、行為する自分への変容であり、それこそがなにかを始める真の醍醐味であるといえるのではないか、と思います。「ええ~、わたし、こんなことをやるようになったんだ~」と、「しない自分」から「する自分」への変化に驚き、楽しんでみてほしいと思います。

2022.07.18 お悩み相談

【質問】仏教の因果の教えについて教えてください。

【質問】
「あなたがこんなふうにいろいろな苦労をするのは、あなた自身が過去世に悪い行いを行った因果の報いだ」と言って、人のことを非難する人がいます。病気を抱えたり、生活に苦労したりするのは、自分の過去世の悪業の報い、因果の報いであって、それが仏教の「善因善果」「悪因悪果」の教えだ、とその人は言います。仏教には、そのような人を非難する教えがあるのでしょうか。

【回答】
ご質問ありがとうございます。非常に大きな問題を頂きました。たしかに、もっとも古いお経のひとつ『真理のことば(ダンマパダ)』(岩波文庫)では、「十五、悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。」「十六、善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ」とあります。ですから、この部分に注目すれば、「善因善果」「悪因悪果」という教えをお釈迦さまが説かれた、と言うことはできます。

しかし、こうした「報い」は、内省的にかえりみて自分だけのなかで思い至ることであり、客観的な事実として他人からとやかく言われることではありません。同じお経には、「五十、他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」とあります。ですから、病気や生活の苦労をしている人に対して、他人が「これはおまえの過去の悪業のせいだ」と残酷に非難するなどということは、その非難すること自体がお釈迦さまの教えから外れているのであり、決して仏教の教えを語る態度とはいえないと思います

 そもそも、なにが原因でなにが結果なのかを、神ならぬ人間である私たちが完全に見通すことなど、決してできないことです。いま現在の「わたし」というありようも、無数の原因結果によって、全体と相互に影響を与え合いながら、絶えず動きつつ、たまたまそのすがたを一時的に現しているだけです。

私たちはこの因果の全体を見通すことはできません。私たちがその因果の全体の内部にある、ひとつの現象にすぎないからです。しかし因果の内部にいるから、私たちの行為が私たち自身と他人や世界全体に影響を与えてしまうこともあります。だからこそ、全体とともにある私に目覚めて、自分だけという思いに振り回されず、善い行いに勤め、悪い行いを避けるようにするというのが、仏教の教えであるのです。

善い行いに勤め、悪い行いを避けるのは、いわばわれわれの生活信条としてそれを行うのです。それは、化学的現象でも、数学的定理でもありません。みずからのお心を安心させて、怒りと貪りに陥らない態度こそ、仏教の基本的な教えであり、そのための手段として「善因善果」「悪因悪果」の教えがあるものとお考えください。そして、いろいろと非難したり、その逆に持ち上げたりする人に対して動じずに、堂々とした態度を取り続けてください。お釈迦さまも「八十一、一つの岩の塊が風に揺がないように、賢者は非難と賞賛とに動じない」と言われています。堂々と生きてください。

2022.01.25 お悩み相談

【質問】仕事ってなんでしょうか?  

【質問】
 今、中学2年生ですが、学校のキャリア教育で将来の仕事のことを考える時間がありました。いろいろな職業があると思いますが、僕はまだ自分が働く姿が想像できないし、何をしたいのかもわかりません。そもそも仕事ってなんなのでしょうか?生活していくために必要なことはわかりますが、「やらなければならないこと」というマイナスなイメージしか持てません。

【回答】
 ご質問ありがとうございます。自分からやりたい職業なんて見つからない、と相談者さんが感じられていることは、それは職業ということの本質を衝いているからです。実は職業とは、「あなたがやりたい仕事」などではないのです。職業とは、「周りの人があなたにやってもらいたい仕事」です。職業を持つと生活ができるというのは、仕事をすることによって対価(金銭)を得ることができる、ということです。

 それが可能なのは、周りの人があなたにやってもらいたい仕事をあなたが行うことで、その労力に相応する対価(金銭)を支払ってもよいと周りの人が考えるからでしょう。周りの人は、あなたの技術や見識や体力をみはからって、あなたならできるだろう、あるいは、あなたしかできないと思って仕事を持ってきてくれます。それをあなたはこなして、なんらかの対価を得ます。そのことが繰り返されればそれが職業となります。それが職業の本質です。

 そう考えれば、「自分のやりたい仕事」は、職業とはそもそもまったく関係がないことがわかるでしょう。だからあなたの言われるように、仕事とはつねに「やらなければならないこと」です。それは「周りの人に求められていること」なのであり、それを「責任」と呼ぶのです。

 相談者さんも、学校で、なにかの委員会に属しているでしょう。図書委員や清掃委員や風紀委員など、学校ではなにかの委員会に所属することが求められます。その仕事は別に自分のやりたいことではないけれど、それでもやっていくうちにだんだん面白くなることもあったでしょうし、あるいは周りから思いがけなく評価されたこともあったかもしれませんね。

 そうした経験を繰り返すことで、あなたも周りの人も、あなた独自の技術や見識や体力を発見していくのでしょうし、それらが鍛えられもするのでしょう。原理としては、職業を見つけるのはこれと同じことです。職業を英語で「コーリング(calling)」と言います。「神から呼びかけられた仕事」という意味です。「神」を「周りの人」と言い換えてもいいでしょうが、周りから呼びかけられ、こうしてみてください、と言われている仕事が、あなたの職業であるのです。

 あなたは周りから何を求められていますか。言い換えれば、周りのために、どんな部分で、あなた自身の技術や見識や体力を使うことができるでしょうか。そのように考えてみて、あなただけに求められている仕事を、ぜひ見つけてみてください。