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2026.09.30 住職のおすすめ本

佐々木 閑・佐々木 斎生 『AIという鏡』 (法蔵館2026)

佐々木 閑・佐々木 斎生 『AIという鏡』 (法蔵館2026)

チャットGPTやAIについてなにか入門的な本を読みたいと思っていた。欲張るなら、入門的な本でありつつも、現代社会におけるAIの未来と問題性についてもちゃんと指摘してくれる本であってほしい。そのように考えていた矢先に本書に出会った。著者は世界的な仏教学者と、その御子息の数学者である。父閑氏の著作は何冊も読んでいたので、必ず面白いと確信して読んだ。はたして面白い。
 
この本の特徴は、AIについての説明をする際に、その開発が、どのような考えから生まれたことであるのか、その思想史をちゃんと説明してくれている点にある。「AIという鏡」というタイトルどおり、本書によれば、AIを開発することとは、私たちがどのような受け答えをする相手に「知性」を見出すのかを、自分に問うことと同義であった。AIの基礎を考えた科学者チューリングは、会話に破綻がなければその相手は「知性」があると見てよいとする。

では、どのように破綻のない会話は続くのか。最初、論理を重ねたうえで、論理を循環させて返答するAIマシンが構想されたが、前もって学ばせておかなければならない前提は膨大であり、実用に堪えなかった。それに対して、ある革命が起きる。論理の積み上げや循環ではなく、中心になる概念や言葉に注目し、それとの近さによってつぎの言葉をつなげるシステムが開発されたのである。このAIは「トランスフォーマー(ジェネレーティブ・プリトレインド・トランスフォーマー)」という。このAIには、すでに膨大な会話がインプットされ、そこから自分で言葉どうしの近さを学習し、それによって言葉をつないでいく。「生成的に自己構成し、訓練済みのトランスフォーマー」であり、その英語の頭文字を取って、GPTと呼ばれるようになる。この革命は衝撃を与えた。なぜなら、「知性」があると思われる受け答えには「自我」は関係ない、と証明してしまったからである。

このAIがどのような未来を開くのか、そして私たちはどのようにふるまえばよいのか。興味がある方はぜひ手に取ってもらいたい。

2026.03.30 住職のおすすめ本

保阪 正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)

保阪 正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)

第二次世界大戦、太平洋戦争のことは、もう忘れたい。三百万の日本国籍の人間が死に、数百万以上の日本国籍外の人間を殺した経験は、日本はもう、覚えていたくもない。戦後の日本人の多くは、無意識下に、そう思って生活していたと思う。

そうした思いがあったからこそ戦争を学ぶことを、私たちは無意識に拒絶してきた。実際、「失敗」とされる戦争の経緯や構造の概略について、学ぶべきだと思いながらも、私は心の底では知りたくなかった。とはいえ事実として、この戦争を経験し、生き長らえた人々によって、戦後社会は構築されたのだし、さらに戦争で死んだ人々を弔うことが、近代からのこの国の弔いの意味だった。つまりは戦争にまつわる生と死とが、私たちの社会の基幹にあることは、忘れる忘れないとは別に、事実としてあることなのだ。だから最近になってようやく、賛否の念はひとまず置いて、日本の戦争を学びなおさなければならないと私は思うようになった。

保阪正康の本は、こうした学び直しに適切な糸口を与えてくれるものであった。保阪の本では、最初に軍隊の機構の概略が示される。これは、現代のわれわれが知らない機構であり、しかも戦争の駆動の中心となったものだ。この機構の特性から日本の戦争の概略を教えてくれる本は貴重である。

また、戦艦大和轟沈を生き残り、名編『戦艦大和ノ最期』を著し、戦後は日本銀行で日本の復興を荷った吉田満の文集も、保阪の本のあと、あらためて読みなおし、現在も深く学びなおしている(吉田の文集の編集も保阪である)。過去からは逃げられない。過去を学び、それを携えて生きるしかない。おなじように、死者からも逃げられない。死者に学びながら、手を携えて、私たちは生きるしかないのだ。

吉田 満『「戦艦大和」と戦後』(ちくま文庫)の写真は、別途掲載いたします。

2026.03.04 住職のおすすめ本

奥村正博『いまを生きるための般若心経の話』(港の人)

奥村正博『いまを生きるための般若心経の話』(港の人)

2026.03.04 住職のおすすめ本

佐々木閑『100分で名著 般若心経』(NHK出版)

佐々木閑『100分で名著 般若心経』(NHK出版)

かつて、2時間×6回の連続講義を頼まれた折に、講本として『般若心経』をとりあげ、解説をしたことがある。つまり『般若心経』について12時間しゃべったのである。そんなにしゃべることがあるのか、と思われるだろうが、掘れば掘るほど述べることはあるもので、じつは12時間でも足りないぐらいだったのだ。ところが今度は、『般若心経』の話を30分でしてくれ、という依頼をもらった。二十四分の一の時間で話をしろ、というのである。もちろん、内容を単純に二十四分の一にすればそれでよいわけはない。絶対しゃべるべきことと、しゃべらなくても良いことを分けて、要点を伝えなければならない。そのためには、『般若心経』を一旦分解して自分の中に落とし込み、長短自在に再構成できるようになることが必要である。

ところで『般若心経』とはやっかいなお経で、釈尊の死後、約五百年後に現れた「大乗仏教」という新たな仏教運動が、それまでの「釈迦の仏教」を否定する、ということがその内容のほとんどを成している。したがって自在に解説するためには、そもそも釈尊はなにを考えたのか、初期の仏教とはどういう教えか、それを『般若心経』はなぜ否定したのか(そして、否定することこそ釈尊の真の教えなのだと、なぜ主張できたのか)ということを勉強しなければならないのである。ひと月ほど、ずっとこうしたことを勉強してみて、ようやく人前でしゃべるところまで仕上がった。そこでつくづくわかったのは、『般若心経』を「やさしく」理解することはできないが、「わかりやすく」理解することはできる、ということだ。それは根本から順を追ってする説明に根気よくつきあう、ということである。 

『般若心経』を「わかりやすく」説明してくれる本としてこの二冊を推薦する。この二冊は、『般若心経』をその根本から順を追って説明してくれ、しかもその説明一つ一つがわかりやすい本である。「やさしく」はないが、「わかりやすい」のだ。一度ぜひ手に取ってみてほしい。

※奥村正博『いまを生きるための般若心経の話』(港の人)の写真は別途掲載いたします

2025.04.30 住職のおすすめ本

大澤真幸『我々の使者と未来の他者』 (集英社2024)

大澤真幸『我々の使者と未来の他者』 (集英社2024)

お墓を上げてしまい、御遺骨は永代供養塔に入れたい、と希望する檀家さんが増えている。これは全国的な風潮であり、これからも進んでいくように見える。次の代がいないので永代供養を希望される場合はわかるのだが、疑問なのは、子供さんがいらっしゃるのに永代供養を希望される場合である。その理由をお訊ねすると、「子供に迷惑をかけたくないから」と言われる。お墓を持つことは迷惑なのか、お寺とのかかわりを持つことは重荷なのか。お墓も仏壇も、先祖からの遺産である。それを重荷と思い、継承せず、自分のところで断絶させたいと願っているように見える。これは大きな絶望であるといえる。なにに絶望しているのか。これは、この檀家さんの件だけではなく、私たち現代の日本人がなにに絶望しているのか、という問題でもある。
大澤は本書でこの疑問に答えようとしている。大澤によれば、現代日本人が失ったのは「我々の死者」である。第二次大戦の敗戦後、日本人は、それまでの軍国主義はまちがいであるとして、大戦で死亡した膨大な数の戦死者を、「我々の死者」として祀れなくなった。戦死者たちの希望を、今の私たちの希望として引き継ぐことを断念した。この喪失が、「未来の他者」への想像や責任の欠落や喪失として現象する。なぜなら、自分たちを過去の死者からの継承者としない場合には、自分たちの継承者としての未来の他者も、想像できなくなるからである。それは現代日本において、環境問題において、あるいは原発の問題において、未来のまだ見ぬ子供たち(「未来の他者」)へ渡す責任感を喪失し、無関心になることに帰着する、と大澤は言う。なるほどと思う。では、どうすればよいか。どうすればわれわれは、「我々の死者」を見出し、「未来の他者」への責任を回復することができるか。
お寺側から言えば、葬儀や法事の際、いったいこれはどういう行為であるのかを見つめることが必要だと思う。葬儀や法事とは、いわば臨終のときを追体験するということである。臨終のとき、人は、残る人々に、なにかを渡す。それは、希望や願望であるだろうし、あるいは恨みや心残り、苦しみなどの暗い感情かもしれない。しかしともあれ、見送りの人に対して、なにかを託すのである。その託されたものを思い起こし、それをわれわれへの希望や願いに変えてあらためて受け取ることこそが、葬儀や法事を営むことの本質である。
そして、その受け取ったことを次の代に渡すことが、葬儀や法事のもう一つの役割でもある。だから、小さな子供を抱えて葬儀や法事に出ることは正しいし、故人の思い出の片々を会葬者が語り合うことは正しい。そのことが故人を「我々の死者」にし、私たちがそこに接続し、未来への責任を持つことになるからだ。本書は今の時代を読む、大事なプラットフォームとなる一冊だと思う。