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2022.12.28 お悩み相談

【質問】心配性で不安になる思考。どのようにしたら変えられますか?

【質問】
昔からとにかく心配性で、まだ何も起こってもいないのに起こったらどうしようと考え始めると不安になることが多く、それならやらない方が安全だと思ってやらずに終わってしまいます。楽観的に考えられたらいいなと思いますが、なかなかそう考えることができません。でも、自分が変わることができるのであれば心が軽くなるような生き方がしたいと思います。どのようにしたらそのような思考が変えられますか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。現代日本を代表する思想家のひとりに、柄谷行人(からたにこうじん)という人がいます。この柄谷氏が、東日本大震災のあと、反原発のデモを支持してつぎのように言っていました。「デモをしても社会は変えられない、という人がいる。しかしそれはちがう。デモは、デモをしない社会から、デモをする社会へと変えるのである」。これはつまりこういうことです。私たちは、デモを行うことと、そこでの主張の実現とをわけて考える必要がある。デモの主張は、たしかに容易には実現しないかもしれない。しかし、デモを行うことは、私たち自身を、デモを行わなかった市民から、行う市民へと変えるのであり、自己自身の変容として、社会の変革を可能にする、と言っているのです。

 突拍子もない発想かもしれませんが、ご質問を読んでいて、私はこのことを思い出しました。質問者さんは、ちょうど、デモの主張の実現がむずかしいために、デモそのものをあきらめる、私たち日本人のありようと似ていると感じました。なにかを行おうとするとき、それを達成するまでの困難さを考えて、腰が引けてしまう。それは私も含めた日本人の政治への態度そのものといえます。けれども行為の結果とは、目標の達成よりも、まずは、その行為をしない自分から、する自分に、自分自身が変化するところにあるのではないか。そこを見なければならない。柄谷氏はそう言っています。たとえばもし質問者さんが、書道を始めたいと考えるなら、それによって実際に字がうまくなり、進級し、展覧会などに入選するといった結果ではなく、定期的に筆を持ち続け、半紙に向かって書き続ける自分へと変化するそのことを見るべきなのだということです。結果はたしかにすぐにはやってこないでしょうが、一方の、「する自分」への変化は、書道を始めたとたん、すぐやってきます。それは、考える自分から、行為する自分への変容であり、それこそがなにかを始める真の醍醐味であるといえるのではないか、と思います。「ええ~、わたし、こんなことをやるようになったんだ~」と、「しない自分」から「する自分」への変化に驚き、楽しんでみてほしいと思います。

2022.07.18 お悩み相談

【質問】仏教の因果の教えについて教えてください。

【質問】
「あなたがこんなふうにいろいろな苦労をするのは、あなた自身が過去世に悪い行いを行った因果の報いだ」と言って、人のことを非難する人がいます。病気を抱えたり、生活に苦労したりするのは、自分の過去世の悪業の報い、因果の報いであって、それが仏教の「善因善果」「悪因悪果」の教えだ、とその人は言います。仏教には、そのような人を非難する教えがあるのでしょうか。

【回答】
ご質問ありがとうございます。非常に大きな問題を頂きました。たしかに、もっとも古いお経のひとつ『真理のことば(ダンマパダ)』(岩波文庫)では、「十五、悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。」「十六、善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ」とあります。ですから、この部分に注目すれば、「善因善果」「悪因悪果」という教えをお釈迦さまが説かれた、と言うことはできます。

しかし、こうした「報い」は、内省的にかえりみて自分だけのなかで思い至ることであり、客観的な事実として他人からとやかく言われることではありません。同じお経には、「五十、他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」とあります。ですから、病気や生活の苦労をしている人に対して、他人が「これはおまえの過去の悪業のせいだ」と残酷に非難するなどということは、その非難すること自体がお釈迦さまの教えから外れているのであり、決して仏教の教えを語る態度とはいえないと思います

 そもそも、なにが原因でなにが結果なのかを、神ならぬ人間である私たちが完全に見通すことなど、決してできないことです。いま現在の「わたし」というありようも、無数の原因結果によって、全体と相互に影響を与え合いながら、絶えず動きつつ、たまたまそのすがたを一時的に現しているだけです。

私たちはこの因果の全体を見通すことはできません。私たちがその因果の全体の内部にある、ひとつの現象にすぎないからです。しかし因果の内部にいるから、私たちの行為が私たち自身と他人や世界全体に影響を与えてしまうこともあります。だからこそ、全体とともにある私に目覚めて、自分だけという思いに振り回されず、善い行いに勤め、悪い行いを避けるようにするというのが、仏教の教えであるのです。

善い行いに勤め、悪い行いを避けるのは、いわばわれわれの生活信条としてそれを行うのです。それは、化学的現象でも、数学的定理でもありません。みずからのお心を安心させて、怒りと貪りに陥らない態度こそ、仏教の基本的な教えであり、そのための手段として「善因善果」「悪因悪果」の教えがあるものとお考えください。そして、いろいろと非難したり、その逆に持ち上げたりする人に対して動じずに、堂々とした態度を取り続けてください。お釈迦さまも「八十一、一つの岩の塊が風に揺がないように、賢者は非難と賞賛とに動じない」と言われています。堂々と生きてください。

2022.01.25 お悩み相談

【質問】仕事ってなんでしょうか?  

【質問】
 今、中学2年生ですが、学校のキャリア教育で将来の仕事のことを考える時間がありました。いろいろな職業があると思いますが、僕はまだ自分が働く姿が想像できないし、何をしたいのかもわかりません。そもそも仕事ってなんなのでしょうか?生活していくために必要なことはわかりますが、「やらなければならないこと」というマイナスなイメージしか持てません。

【回答】
 ご質問ありがとうございます。自分からやりたい職業なんて見つからない、と相談者さんが感じられていることは、それは職業ということの本質を衝いているからです。実は職業とは、「あなたがやりたい仕事」などではないのです。職業とは、「周りの人があなたにやってもらいたい仕事」です。職業を持つと生活ができるというのは、仕事をすることによって対価(金銭)を得ることができる、ということです。

 それが可能なのは、周りの人があなたにやってもらいたい仕事をあなたが行うことで、その労力に相応する対価(金銭)を支払ってもよいと周りの人が考えるからでしょう。周りの人は、あなたの技術や見識や体力をみはからって、あなたならできるだろう、あるいは、あなたしかできないと思って仕事を持ってきてくれます。それをあなたはこなして、なんらかの対価を得ます。そのことが繰り返されればそれが職業となります。それが職業の本質です。

 そう考えれば、「自分のやりたい仕事」は、職業とはそもそもまったく関係がないことがわかるでしょう。だからあなたの言われるように、仕事とはつねに「やらなければならないこと」です。それは「周りの人に求められていること」なのであり、それを「責任」と呼ぶのです。

 相談者さんも、学校で、なにかの委員会に属しているでしょう。図書委員や清掃委員や風紀委員など、学校ではなにかの委員会に所属することが求められます。その仕事は別に自分のやりたいことではないけれど、それでもやっていくうちにだんだん面白くなることもあったでしょうし、あるいは周りから思いがけなく評価されたこともあったかもしれませんね。

 そうした経験を繰り返すことで、あなたも周りの人も、あなた独自の技術や見識や体力を発見していくのでしょうし、それらが鍛えられもするのでしょう。原理としては、職業を見つけるのはこれと同じことです。職業を英語で「コーリング(calling)」と言います。「神から呼びかけられた仕事」という意味です。「神」を「周りの人」と言い換えてもいいでしょうが、周りから呼びかけられ、こうしてみてください、と言われている仕事が、あなたの職業であるのです。

 あなたは周りから何を求められていますか。言い換えれば、周りのために、どんな部分で、あなた自身の技術や見識や体力を使うことができるでしょうか。そのように考えてみて、あなただけに求められている仕事を、ぜひ見つけてみてください。

2021.09.03 お悩み相談

【質問】部活から引退しても勉強に身が入らず困っています。

  
【質問】
 中学三年の女子です。三年間部活動に頑張ってきましたが、三年となり、この八月で引退となりました。親からは、「さあこれから受験をがんばんなさい」と言われますが、そんなに簡単に切り替えられません。ずるずると引きずっている私を見て、「未練たらしいな」と言われます。私もそう思いますが、さびしくて仕方ありません。どうしたらよいでしょうか? (10代女性)

【回答】
 ご質問ありがとうございます。質問者さんは中学生なのですね。これまで部活にがんばってきたけど引退して、さびしい、気の抜けた思いをされているのですね。「受験をがんばんなさい」と言われても、そう簡単に切り替えられませんよね。でも、受験は近づいてくる、勉強しなきゃいけないし、でも身が入らないし、あーあ、というお気持ち、よくわかります。私も求められている原稿の締め切りが来ると、ぎりぎりとそればっかり考えて、さて書き終わって出版社に送ると、気の抜けたような一日を送ってしまいます。かつてはこれが数日続いて、お酒に逃げてみたり、ひたすら寝てみたりしていたのですが、どうも気分が晴れませんし、第一家族に迷惑をかけてしまうので困っていました。要するにリセットができなかったわけですね。
 
 こうした反省から今は、なにか原稿や仕事を一つ終えると、本屋さんに行って、全然関係のない本を見たりして一~二時間ばかり過ごすようにしています。できれば本屋さんは古本屋さんのほうが、時代的な脈絡がつながらない本を見られて、こうした時は特にいいですね。鳥取は古本屋さんが少ないので困りますが、「邯鄲堂(かんたんどう)」(鳥取市吉方)というレトロで素敵な古本屋があり、新刊書でも「定有堂(ていゆうどう)書店」(鳥取市若桜橋)はいろいろ視界を広げてくれる本がうれしい本屋さんです。少し足を延ばして東郷湖畔には「汽水空港(きすいくうこう」(湯梨浜町)という、これまた素敵な古本屋さんがあります。こうした本屋さんをめぐって、本を二~三冊買い求め、美味しい飲み物などと一緒に読んでいると、読んでいるうちに眠くなる(笑)。しばらく眠ってから起きて、それまでの資料を片付けてみると、新しい仕事に少しずつ入れるようになりました。

 これは私の例ですが、「リセットのための一日」というのを作ることをおすすめします。その日が終わったらそれまでの部活関係のものはいったん片付けて目の前から遠ざけるのもいいですね。うまくリセットできるようお祈りします。あ、「リセットの一日」をするときは事前に家族に伝えておくことがいいですよ。妙に心配されるのもストレスになりますものね(笑)。

2021.07.01 お悩み相談

【質問】大病が発覚し、どう気持ちを保てばよいでしょうか。

【質問】大病が発覚し、どう気持ちを保てばよいでしょうか。

【 質問 】
60代を超え、これまで病気のひとつもしていなかったのですが、大きな病気が見つかりました。今は夫婦で二人暮らしをしていて、子どもたちは都会で仕事をし、家庭を持っています。まだまだ自分は長生きをするものだと思っていたので、突然「死」というものが目の前に姿を現したことに戸惑っています。何かに没頭していると忘れることもあるのですが、不意にそのことを考えてしまい、時には大きな不安に押しつぶされそうになります。前を向かないといけないとは思いつつ、どう向き合っていくのが良いのでしょうか?    (60代女性)

【 回答 】
お便りありがとうございます。大きな御病気が見つかられたとのこと、治療もお辛いのではありませんか。毎日、ご不安で、心に重しがのったような御気分ではないかと思います。よく御相談くださいました。直接お話をさせていただきたい気持ちです。書面でのお答えでお許しください。

 御相談のお言葉からうかがえますのは、相談者様がとても強い自制心をお持ちの方だろうということです。ご家庭の内でも外でも、いろいろなお役を誠心誠意お勤めでいらっしゃったのではないですか。お嫁さん、お母さん、御夫人、PTAのお役、ご近所付き合い、など、ご家庭でこなす役は多く、さらに働いていらっしゃるならば職場での関係も加わります。そうて築いてこられた役割や立場、重ねた経験がありながらも、突然、想定外の事情が起こることがあります。そのような場合、私たちは混乱しますし、呆然とし、悲嘆のなかに落ち込みます。多分私もそうなります。そのときに「前を向く」というのはとても難しいことですし、必ずしもすぐに必要な道筋ではないような気がします。

相談者様にいま必要なのは、むしろ、丁寧に淹れたお茶一杯を心からおいしいと思えることではないか、と思います。あるいは太陽の光をしみじみ気持ちいいと思えることではないでしょうか。おいしい、気持ちがいい、としみじみ思うことは、「前に向こう」「物事を整理して進もう」と思うことから少し外れます。分別をつけて前進することは、必要と不必要を分けて、不必要を振り切ることです。でも、おいしい、気持ちがいいとしみじみ思うのは、相談者様の身と心が御病気ごと、不安なお気持ちごとそのように感じている、そのことを慈しむことです。そこでは必要と不必要を分けること自体がいらなくなります。無理に前を向こうとせず、おいしいなと思いながら、気持ちがいいなと感じながら、ご自身の体と心をまるごと、御病気ごと、いたわってあげてください。よくやってるな、ありがとう、とご自身の体と心に言ってあげていただきたいと思います。