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2021.11.12 住職の徒然日記
新刊書『「現成公按」を現成する』のご紹介
翻訳に明け暮れた日々がようやく終わり、この度春秋社より新刊が出版されました。
『「現成公按(げんじょうこうあん)」を現成する』(奥村正博著、宮川敬之訳)
これは、日本曹洞宗の開祖である道元禅師(1200~1253)の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』のなかでも最も有名な巻である、「現成公按」巻を読解、解説したものです。原著は2010年にアメリカ・ウィズドム社から出版された英文書『Realizing Genjokoan』で、すでにフランス語・ドイツ語・イタリア語などに訳され、世界的に読まれています。このたび、この本が原著者の母国語である日本語に訳され、刊行されました。
著者奥村正博老師は、1948年大阪生まれ。1970年22歳のときに、内山(うちやま)興正(こうしょう)老師の弟子として出家得度され、1975年の渡米。以後、三十年以上にわたって、欧米人とともに道元禅師の坐禅を勤め、その教えを解説・実践されてこられました。
すでに20冊以上もの英文著作を出されている奥村老師にとって主著というべき本が本書であり、ここには奥村老師のこれまでのご修行のエキスが織り込まれております。しかも、仏教を知らない欧米人にもわかるように仏教の基礎にたちかえった新鮮かつ実践的な解説で、日本語でも難解とされている「現成公按」巻の画期的な講読がなされています。
私(宮川)は、20年前に奥村師と初めてお会いし、その誠実でもの静かなお人柄と、しかも仏法への揺るがぬ熱意、忍耐強さ、ご修行へのぶれることのない態度に対し、仏道の先達として敬慕してきました。五年前、本書原著に触れて、これは現代のわれわれに必須で、圧倒的な力を持つ著作だと知りました。
そこで、3年前の2018年、アメリカ・インディアナポリスにある、奥村老師が創設された三心寺(Sanshin Zen Community)にて五日間の眼蔵会(げんぞうえ)(『正法眼蔵』のある一巻を選び、それを読解参究する期間)に参加した折に、奥村老師に直接、翻訳を許可していただくようお願いをしました。奥村老師をはじめ皆様のご協力を得て、このたびようやくこの訳書を刊行することができましたのは、大きな喜びです。
道元禅師の、そして曹洞宗の教えの基本となるのは「坐禅(ざぜん)」です。
この坐禅は「無所得(むしょとく)・無所(むしょ)悟(ご)の坐禅」といわれ、なにかの目的のためにする坐禅ではなく、坐禅そのものに入り込み、没頭する坐禅です(只管(しかん)打坐(たざ)〔ひたすら(只管)坐禅に打ち込む(打坐)〕)。
なぜこのような坐禅を、道元禅師はご自分の教えの根本とされているのでしょうか。また、道元禅師が書かれた膨大な御著作と、こうした「無所得・無所悟の坐禅」との関係はどうなっているのでしょうか。さらには、こうした坐禅でもって、われわれはこの困難な時代や社会に、どう生きよと教えられているのでしょうか。こうしたことに関心がおありの方は、ぜひこの著作を手に取って見ていただきたいと思います。奥村老師の日々のご修行から読み解かれる文面に、なにかのヒントを得られると確信します。
2021.07.01 住職の徒然日記
翻訳まで
鳥取のお寺に生まれて、久松山の麓にある学校に、幼稚園、小・中・高校と、あわせて十四年間も通った。半ば無意識下で受けた強制によって、半ばは自主的な選択のつもりで、生家の宗派の僧侶になった。学生時代に母が亡くなり、約十年前に師匠である父が亡くなって、お寺を継いで住職となった。
お寺は鳥取大火で焼けてから完全な復興が出来ていなかった。だから復興が責務だった。お檀家さんと協議を重ね、幸いに私の代に建物部分の八割の復興を遂げた。二〇一六年の秋のことだ。復興できて天にものぼるほどうれしさが湧きあがるかと思いきや、このときに私はただ茫然とし、混乱していた。
復興事業は、物心つく頃から(正確には生まれる前から)営々と続けられていたもので、それで私は、自分の生あるあいだこの事業がずっと続くものと、心と体の奥底で固く思い込んでいたらしかった。つまり私は、復興事業に完全に依存していたのである。その依存が(八割の完成であっても)外される現実になって茫然とし、混乱してしまったのだった。私はそのときより復興を第一に考える住職から、別の生き方を探すよう転換を余儀なくされたのである。
どのように生きるか。僧侶をやめるつもりはない。お檀家さんとお寺を守っていくことはこれまでと変わらない。だがそのうえで、私がなるべき僧侶とはなにか。うちの宗派は曹洞宗で、その祖である道元禅師の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は世に難解をもって鳴る。この本に真正面から取り組んでみようか。小さい頃から本屋に入り浸り、駅前の旧富士書店二階の岩波文庫の棚前と、定有堂書店の思想書の棚前に行くことが、高校卒業までの生きがいのほとんどすべてだった。やはり本が読みたい。うちのお寺には坐禅堂もある。坐禅ができる。ならば坐禅をして『正法眼蔵』を読み解く僧侶になろう。そう思った。
そこで何回か、有志の方々の前で『正法眼蔵』の講義を行ってみた。見かけは取り繕ったが、やりながら正直のところ、まるで歯が立たないと思っていた。誰かの二番煎じの解説を、ただ口から垂れ流しているようにしか思えなかった。この本を現代に読むことについて、自分で納得できる、地に足が着いた説明ができていない。蒼ざめた。坐禅の修行を根底にして、学問的蓄積も参照しながら、自分の問題として根本から考え、わかりやすく語る。そんな説明がなぜできないのか。できないならそうした解説をまず探し、勉強すべきだろう。探索の末、見つけた! だがそれは日本語の本ではなかった。日本人僧侶が英語で書いた『正法眼蔵』「現成公按」巻の解説本だったのである。
それは『Realizing Genjokoan(現成公按の実現)』という本だった。著者は奥村正博(おくむらしょうはく)という人で、一九七〇年代、二十代の時にアメリカにわたり、以来五十年にわたって欧米人とともに修行しながら、道元禅師の著書の翻訳・解説に尽力されてこられた方である。
仏教を知らない欧米人へ説くことを前提にしているので、坐禅の実践に基づき、根本的な知識の説明から、驚くほど明快な解説がなされている。とはいえ英語である。だれか日本語に訳してくれないだろうかと思った。同時に、奥村師が住むアメリカ三心寺(さんしんじ 老師が開かれたお寺)に行き、勉強・修行のやり直しをさせてもらいたいと願った。
後者の希望は二〇一八年にかない、友人三人とともにブルーミントンの三心寺で連続講義を聴講できた。朝五時から五十分の坐禅を一日に七回、その間九十分の英語の講義を午前午後二回。それを五日間。へとへとになったが、僧侶の骨格を作り直してもらった気がした。何よりも七十歳を超えた奥村師が、この修行を参加者(我々四名の日本人僧以外、欧米人の僧俗三十人)と孜々と行じておられる姿は圧倒的だった。
五日間の聴講のあと、私は自分に翻訳をさせてほしいと奥村師に願い出ていた。できるできないでは、もはやなかった。修行として行うのだ。その場で奥村師より承諾を受けて、本一冊の翻訳が始まった。
本格的な翻訳は初めてだったし、力不足と日常のいろいろを言い訳にして、一年たっても三分の一も翻訳できなかった。このままではいけないと思っていた矢先、思いがけない事態が出来した。新型コロナウイルスのパンデミックである。
お寺の活動のほとんどが中止となり、緊急事態宣言のさなか、私は改めて、すがるように朝晩翻訳を続けた。この本には、奥村師の人生が刻まれていて、そのお声に一日中浸ることができるのはなによりの救いとなった。十年以上前に出版された本であるのに、驚くべきことに今回のコロナ禍の世界の混乱と衝突までが予見されているようで、それを道元禅師の一文一文と正確に連動させて読み解かれている。
予言の書を読み進めるかのように、私は半ばとり憑かれるように翻訳していた。今年一月に脱稿し、奥村師の大幅な加筆訂正を頂いて、今年の秋には春秋社より出版するはこびとなった。題名を『「現成公按」を現成する』という。混乱と衝突の現代に道元禅師の仏教を実践するとはどういうことかを、これほどまでに切実にわかりやすく書いてくれている本を、管見にして私は知らない(定有堂書店『音信不通』第60号)。