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2022.07.18 お悩み相談

【質問】仏教の因果の教えについて教えてください。

【質問】
「あなたがこんなふうにいろいろな苦労をするのは、あなた自身が過去世に悪い行いを行った因果の報いだ」と言って、人のことを非難する人がいます。病気を抱えたり、生活に苦労したりするのは、自分の過去世の悪業の報い、因果の報いであって、それが仏教の「善因善果」「悪因悪果」の教えだ、とその人は言います。仏教には、そのような人を非難する教えがあるのでしょうか。

【回答】
ご質問ありがとうございます。非常に大きな問題を頂きました。たしかに、もっとも古いお経のひとつ『真理のことば(ダンマパダ)』(岩波文庫)では、「十五、悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。」「十六、善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ」とあります。ですから、この部分に注目すれば、「善因善果」「悪因悪果」という教えをお釈迦さまが説かれた、と言うことはできます。

しかし、こうした「報い」は、内省的にかえりみて自分だけのなかで思い至ることであり、客観的な事実として他人からとやかく言われることではありません。同じお経には、「五十、他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」とあります。ですから、病気や生活の苦労をしている人に対して、他人が「これはおまえの過去の悪業のせいだ」と残酷に非難するなどということは、その非難すること自体がお釈迦さまの教えから外れているのであり、決して仏教の教えを語る態度とはいえないと思います

 そもそも、なにが原因でなにが結果なのかを、神ならぬ人間である私たちが完全に見通すことなど、決してできないことです。いま現在の「わたし」というありようも、無数の原因結果によって、全体と相互に影響を与え合いながら、絶えず動きつつ、たまたまそのすがたを一時的に現しているだけです。

私たちはこの因果の全体を見通すことはできません。私たちがその因果の全体の内部にある、ひとつの現象にすぎないからです。しかし因果の内部にいるから、私たちの行為が私たち自身と他人や世界全体に影響を与えてしまうこともあります。だからこそ、全体とともにある私に目覚めて、自分だけという思いに振り回されず、善い行いに勤め、悪い行いを避けるようにするというのが、仏教の教えであるのです。

善い行いに勤め、悪い行いを避けるのは、いわばわれわれの生活信条としてそれを行うのです。それは、化学的現象でも、数学的定理でもありません。みずからのお心を安心させて、怒りと貪りに陥らない態度こそ、仏教の基本的な教えであり、そのための手段として「善因善果」「悪因悪果」の教えがあるものとお考えください。そして、いろいろと非難したり、その逆に持ち上げたりする人に対して動じずに、堂々とした態度を取り続けてください。お釈迦さまも「八十一、一つの岩の塊が風に揺がないように、賢者は非難と賞賛とに動じない」と言われています。堂々と生きてください。

2022.01.25 お悩み相談

【質問】仕事ってなんでしょうか?  

【質問】
 今、中学2年生ですが、学校のキャリア教育で将来の仕事のことを考える時間がありました。いろいろな職業があると思いますが、僕はまだ自分が働く姿が想像できないし、何をしたいのかもわかりません。そもそも仕事ってなんなのでしょうか?生活していくために必要なことはわかりますが、「やらなければならないこと」というマイナスなイメージしか持てません。

【回答】
 ご質問ありがとうございます。自分からやりたい職業なんて見つからない、と相談者さんが感じられていることは、それは職業ということの本質を衝いているからです。実は職業とは、「あなたがやりたい仕事」などではないのです。職業とは、「周りの人があなたにやってもらいたい仕事」です。職業を持つと生活ができるというのは、仕事をすることによって対価(金銭)を得ることができる、ということです。

 それが可能なのは、周りの人があなたにやってもらいたい仕事をあなたが行うことで、その労力に相応する対価(金銭)を支払ってもよいと周りの人が考えるからでしょう。周りの人は、あなたの技術や見識や体力をみはからって、あなたならできるだろう、あるいは、あなたしかできないと思って仕事を持ってきてくれます。それをあなたはこなして、なんらかの対価を得ます。そのことが繰り返されればそれが職業となります。それが職業の本質です。

 そう考えれば、「自分のやりたい仕事」は、職業とはそもそもまったく関係がないことがわかるでしょう。だからあなたの言われるように、仕事とはつねに「やらなければならないこと」です。それは「周りの人に求められていること」なのであり、それを「責任」と呼ぶのです。

 相談者さんも、学校で、なにかの委員会に属しているでしょう。図書委員や清掃委員や風紀委員など、学校ではなにかの委員会に所属することが求められます。その仕事は別に自分のやりたいことではないけれど、それでもやっていくうちにだんだん面白くなることもあったでしょうし、あるいは周りから思いがけなく評価されたこともあったかもしれませんね。

 そうした経験を繰り返すことで、あなたも周りの人も、あなた独自の技術や見識や体力を発見していくのでしょうし、それらが鍛えられもするのでしょう。原理としては、職業を見つけるのはこれと同じことです。職業を英語で「コーリング(calling)」と言います。「神から呼びかけられた仕事」という意味です。「神」を「周りの人」と言い換えてもいいでしょうが、周りから呼びかけられ、こうしてみてください、と言われている仕事が、あなたの職業であるのです。

 あなたは周りから何を求められていますか。言い換えれば、周りのために、どんな部分で、あなた自身の技術や見識や体力を使うことができるでしょうか。そのように考えてみて、あなただけに求められている仕事を、ぜひ見つけてみてください。

2022.01.25 住職のおすすめ本

「戦士の休息」 岩波書店

「戦士の休息」 岩波書店

 落合博満氏が、いまもっとも気になる人である。落合氏とは、ご承知のように、プロ野球選手としてはロッテ・中日・巨人・日ハムと渡り歩き、3度の三冠王を取り、プロ野球監督としては中日を率いた8年間にリーグ優勝4度、日本一1度を達成した人物である。だが選手のときにも、監督の時にも、活躍しているその時には、実は興味がわかなかった。それが最近になって妙に気になる人物となり、本や発言などを漁るようになった。

 『戦士の休息』は落合氏が映画について書いた本で、もとは氏の趣味である映画鑑賞に目をつけたスタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーがジブリの会報『熱風』に依頼した連載である。プロ野球界についての氏自身の深い見解や分析と、年季の入った映画鑑賞眼とが交錯して、唯一無二の読み物となっている。一方『嫌われた監督』は、元中日新聞の落合番の記者によって書かれた落合氏の監督8年間についてのドキュメントであり、氏の一見突飛にみえる言動の理由を丁寧に解き明かし、深く考えさせる読み物となっている。

 落合氏は、歯に衣着せず、率直な発言をする。それは時に大言壮語、有言実行といわれた。かと思うと監督時代には、マスコミや選手に沈黙を守り、語るときにはポツリと預言のような謎めいた言葉を残し、試合中には無表情を貫いた。そしてそのどちらにおいても、周囲を驚かせる決断をして結果を残した。この率直と決断、秘密と即断の根底には、「プロフェッショナルとして、何が求められ、そのためにどうしなければならないか」という根底的な認識があったのである。

 一見奇矯なその言動が、実は誰よりもものごとの基本にもどり、それを自分ながらに考察することによって考え抜かれたうえで発せられていることが、両書をあわせよむとよくわかる。落合氏の言動はものごとの本質をつねに新鮮に衝く。それもまた、基本に忠実に、シンプルに考えているためである。そのシンプルさが、無駄なことがらをうろうろ考えてしまう私たちにとって、かえって新鮮に、斬新に響くだけなのだ。局所局所に、私たちがそれぞれ個として生きる根本を見直す場合に、氏の言葉と行動は、大きな勇気を与えてくれる。

2022.01.25 台所手帖

金柑

金柑

いつの間にか朝を迎えているように、新しい年を迎えることができそうです。ありがたいことだと改めて感じます。いつも難なく会える誰かと会えたり、会話を交わしたりすることが、実は毎回、一瞬ごとに最後になるのでないかと、根拠もなく思う今日この頃です。

 天徳寺は歴史的に長らく修行道場でした。400年以上もその歴史を遡ることができます。今でも、沢山の和尚様方が辨道(修行)のために出入りされます。そして、お寺を支えてくださる檀家の皆様と同じようにこのお寺は和尚様方によって保たれていることは、度々ご紹介しております。例えば、台所の責任者として一つの修業期間や、行持(ぎょうじ)を取り仕切ってくださるお役を典座和尚様といいますが、摂心会、開山忌、授戒会や眼蔵会の時とそれぞれに典座寮(台所チーム)が組まれるのです。そんな中で、用呂の祥雲寺様はつい数年前までお一人で30年天徳寺の開山忌を取りまとめてくださっていました。典座寮での教えを大切にしてゆきたいと思います。

先般、方丈さんの同安夏(修行の同期)の和尚さんが京都の亀岡から数日滞在されていました。何気ない日常会話で私の心に響いたのは「精進料理」という言葉。「自分は生活の中で頂いた食材や料理はなんでも精進料理だと思っている」と。覚悟のある言葉だと思いました。野菜だけの料理が精進料理、ではない、ということですね。気持ちのこもった「どうぞ」に対してそれを頂く覚悟。「例え、それがどんな食材、料理でも」「精進料理」そう言い切られるお姿がありがたく、ご紹介したく思いました。「あなたのために走り回って一生懸命用意しました。」これが「ご馳走」の意味ですよね。精進料理とは、命を繋ぐ「どうぞ」「いただきます」のこと。ご馳走と同じ。しかし、その食材や料理の中に、相手に、自分に、仏さまがあるのだ。そう感じた尊い瞬間がありました。
 

 季節の手しごとは、金柑を甘露煮。簡単にできるので是非お試しください。金柑は気の巡りを整え、体を温めます。喉に違和感があったり咳が出るときなどに有効です。

金柑の甘露煮の作り方

〈作りやすい分量〉
金柑800グラムに対して、
きび砂糖約400グラム弱を用意します。

〈作り方〉
金柑を洗って、縦もしくは横に包丁の角を使って切り目を入れます。2、3か所に切り目を入れたら、私の祖母は水に漬けて上下か左右に何度か押さえて種を出していました。鍋に金柑を入れ、ひたひたに水を張り、沸騰させます。一度茹でこぼして水を取り替えて一晩漬けおきます。次の日にゆっくり火を入れます。砂糖は、数回に分けて入れます。煮汁はお湯で割ったり、炭酸で割ったり、と活用します。苦味と酸味と甘味が調和していてなくてはならない季節のしごとです。

2021.11.12

お粥のこと

お粥のこと

空気が澄んで、秋の香りがします。一日の気温差が激しくなるので、体調が崩れやすい時期でもあると思います。空気が乾燥するので、空咳が出たり喉が痛くなったり、皮膚の乾燥が増したり、と秋に出やすい体の不調があります。今回は夏に疲れた胃腸を整える、おかゆ、をご紹介します。

永平寺では、約800年もの歳月、朝食の献立はおかゆ、漬物、ごま塩だそうです。修行道場では終始無言で食事をとらなければならないのですが、漬物には歯ごたえがつきものです。雲水さんたちのために、薄くきられた沢庵、無用な油がにじまないようにゆっくりすられたごま塩が粥とともに出されます。永平寺の開祖様、道元禅師は「食」について、調理責任者である典座の心得を記した『典座教訓』と、頂く側の作法を記した『赴粥飯法』を記されました。その中におかゆには、10の優れた点がある、と説く古い経典があり、引用されています。

粥有十利(しゅうゆうじり)

1.色つやがよくなる
2.力がでる
3.寿命が延びる
4.安らかになる
5.頭が冴え口中爽やかになる。
6.消化がよい
7.病気を防ぐ
8.飢えを満たす
9.渇きをいやす
10.便通がよくなる

皆様、いかがでしょうか。早速、お粥を作ってみようかな、とは思いませんか?病気の時、体調の優れない時だけでなく、出来立て最も良い状態で頂くお粥の滋味を味わていただきたいと思います。お粥の歴史は長く、乾燥保存した穀物を多めの水で煮込み、柔らかくし、温かく頂く方法として火と土器を使い始めた数千年前に遡るともいわれています。お釈迦様の乳かかゆの故事をはじめ、数多くのお粥に関する逸話があります。

 天徳寺では、秋の開山忌には毎年、お茶で炊いた「茶粥」を皆様にお振舞してきました。
お粥は、お米に対してどれくらい水を加えるかで仕上がりや呼び方が変わります。
お米一に対して水五だと、全粥と呼びます。水の割合が七だと七分粥、十だと五分粥と呼びます。水の代わりにお茶を用いれば茶粥、です。

 もう一つ、お勧めしたい粥があります。白米半合を三合の水で吸水させ、お粥を炊きます。昆布だし一合に塩と淡口醤油を適量加え、ひと煮立ちさせます。長いもと、あれば大和芋を30ℊづつ摺下ろして最後に加えます。盛り付けたのち、最後に青のりを、真ん中にのせます。養老粥のできあがりです。この秋、冬に炊きたての粥で、温まっていただければ幸いです。