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2023.03.28 住職のおすすめ本

磯崎新『反建築史』(TOTO出版2001)

磯崎新『反建築史』(TOTO出版2001)

昨年12月28日、建築家磯崎新が亡くなった。91歳。年齢からすれば、いたしかたないとも思えるが、不思議なほど受けた衝撃が大きく、いまだに私はその残響のなかにある。

磯崎は、世界中、古今東西の建築家のなかでも、きわめて希有な存在であった。建てた実際の建築以上に、言語による建築、思想としての建築の名手であったからである。それは通常考えるような、建築家が自分の建築物に対してそのコンセプトを巧妙に解説するなどといった事態とは根本的に異なる。むしろ現実の建築物のほうが、言葉・思想による膨大な「建てられざる」建築の、ごく一部の顕現となっているといった状態を、磯崎は意識的にも無意識的にも狙っていた。その言語・思想自体も、建築的ではなく、むしろ自解しようとするモメントを内在させるようなものを好んで使った。そうした意味で磯崎建築の本質は、「反建築(アンビルト)」であり、「瓦礫(デブリ)」であった。

現実の建築物は、圧倒的に悠久な建てられる以前(アンビルト)と、呆然とたたずむ崩壊の以後(デブリ)とのあいだの、ごく一瞬のなにかでしかない。あるいは建築は、もの自体から立ち現われ、もの自体に解体しようとする運動全体だといってもよい。一瞬において永遠に対峙する時にこそ、世界全体として「建築」が現れる。おそらく磯崎はそう考えていたはずである。

 こうした磯崎の考えが、日本の芸術運動であるネオ・ダダとの関係で展開したことを、前著は丁寧に明らかにした。私はこの本のおかげで、はじめてこの思想家=建築家の「出自」を知ることができ、それによって後著をより深く、再び読みなおすことができた。深く感謝する次第である。過去と現在とにこれだけの巨大な足跡を残しつつも、磯崎新とは「未来の建築家」なのだとつくづく思う。

未来において、磯崎の一生涯の真価は見直される。それは、もはや建築が不可能になる未来、瓦礫とともに生きざるをえない未来において、どのような「光」を描けるのかという問いとして現れる。磯崎はそのヒントを書き続け、造り続けたと思う。磯崎自身が不在の「反建築」そのものとなったこれから、磯崎の真の読解が始まるのだ。

2023.03.26 台所手帖

大分の郷土料理 だんご汁とやせうま

大分の郷土料理 だんご汁とやせうま

寒い間に味噌を仕込もう!
ホームぺージやフェイスブックでお声掛けして、「お寺で一緒に味噌づくりをしませんか?」お手伝いしてくださる方を募ろう!と思っていたのですが、あれこれと悩んでいるうちに寒仕込みの時期を逃してしまいました。どんなふうにしようか、ああでもない、こうでもない、と足踏みしていたら天のお導き(?)NPOの団体さんとご縁が繋がり、「生産者の方々と大豆を植えるところから参加できる味噌づくり」の会に参加させて頂くことができました。今年はリサーチの年、ということにしようかな。

 なるほど、大豆を植えるところからからの味噌づくり、これは幸せ。自然農というのでしょうか、鹿や猪とわけっこしながら、人間の分、みんなの分を収穫させてもらって、麹と塩と混ぜて味噌になる大豆、それを植えて育てるお手伝いをさせて頂けるのかあ、すごいことだなあ、と思いました。ホカホカの温かい大豆を一粒味見したら、味見が止まらなくなりそうなくらい美味しかったのです。「いかん、いかん、今から味噌づくり」と、大豆の味見をしたい気持ちに蓋をして、作業に取り掛かったのでした。懐かしい仲間との再会もあって話が弾み、おいしくなること間違いない味噌を仕込んでまいりました。今期はぜひ私も大豆を植えるお手伝いをしたいと思っています。私も食の循環の大きなサイクルの(右?左?端っこ)一端に参加できたなあ、と感動しながら帰路に就きました。仕事となると大変だとは思いますが、土と共に生きてゆけることは幸せなこと。手をかけて、育てて戻って来る。鳥取は土が沢山あるので、自宅で野菜を作ってる方も多く、お裾分けを頂くことが典座寮の喜びです。
 ひと匙の味噌、大豆と麹と塩が美味しくなるまでの時間を、大豆を土に植えるところ、麹になるお米を植える、麹の分離から考えてみるいいチャンスでした。大切だなあ、としみじみ思いました。

 さて、天徳寺は何ができるか。典座寮は考えます。「一緒に坐禅をして、精進料理を頂きませんか?」味噌の会の若い農園主さん、精進料理にご興味があるとの嬉しいお言葉。今しばらくお時間を頂きまして検討したいと思います。

 今日は、先の味噌づくりに参加して頂いてきた昨年仕込みのお味噌と頂いたお野菜で、大分の郷土料理、だんご汁を作ります。味噌を使ったスペシャル料理です。とても手軽に楽しく仕込めて、美味しいので作ってみていただきたいです。

 だんごは、小麦粉をボウルに200gくらい入れ、少しの塩と水を適量加えてこねます。耳たぶ位の柔らかさになるようにこねたら20分くらい濡れ布巾をかけてねかせます。その間に味噌汁を仕立てます。そして同時に先ほど寝かせておいた生地をピンポン玉くらいにちぎり、粘土のヘビを作るように麺状に両手でのばします(肩幅くらいに伸びれば上出来)そのだんごを味噌汁に入れ、火が通ったらだんご汁の出来上がりです。

 お湯を沸かし、同じ要領で伸ばした麺を入れてゆで、きなこ(砂糖と少しの塩)にまぶすと「やせうま」というおやつになります。鳥取の大山小麦や地粉、安心な小麦で作ってみて頂けると嬉しいです。

2023.02.27 住職のおすすめ本

アジア人物史 [17~19世紀] アジアのかたちの完成 集英社2022

アジア人物史   [17~19世紀] アジアのかたちの完成 集英社2022

江戸時代、朝鮮半島から日本へは、朝鮮通信使という友好使節が来ていた。そのように歴史の教科書では習った。このことにはいままでなにも気にしていなかった。

けれども考えてみれば、江戸時代以前、日本は朝鮮半島に攻め入り、軍事的侵略をしていたのである。言うまでもなく、秀吉の朝鮮出兵である。

そうであれば、日本は、朝鮮半島に対して軍事侵略を行い、そののちに国交を回復し、通信使を送ってもらうまでになったということだ。そのような国交の回復がどのように行われたのかについて(そしていったん国交が回復した両国の関係が、またも明治日本の軍事侵略をどのように志向させたかについて)、私はいままでなんの想像もしてこなかった。文字通り「無関心」だったのである。

けれども、この国交回復には対馬藩の苦闘があったということを、このたびの本の木村直也「江戸時代の日朝関係とその変容―対馬の動向を中心に」ではじめて知った。はずかしいことである。

現在、朝鮮半島と日本との関係は最悪であり、それは日本が軍事侵略を行い、徴用工動員などを行った、加害者としての行為に対して、国として清算できていない多くの部分があることに原因の一班がある。

かつて江戸時代に、対馬一藩に課せられた朝鮮日本両地方間の調整の機能は、近代国家どうしの交渉におきかえられ、それは世界情勢全体のパワーバランスともつながって、きわめて複雑になった。この状況をどう解きほぐすかは、けれどもやはり、まずは歴史を参照することからはじめるべきであり、対馬藩の苦悩をより詳細に見る必要があると思う。

本書はほかにも、前田舟子「琉球王国の新時代」、川原秀城「朝鮮実学」、小松久男「中央アジアの十九世紀」など、いままで「無関心」であった領域をするどく衝いた問題を詳述して、現在の複雑な国際関係の淵源を照らし出している。本書を読み、私はなんども驚嘆した。シリーズの続巻も刮目して待ちたい。

2023.02.27 お寺のあれこれ

坐禅の用具「坐褥(ざにく)」

坐禅の用具「坐褥(ざにく)」

先回、坐甫(ざふ)という丸いクッションを紹介しました。
今回はその下に敷く敷物である「坐褥(ざにく)」を紹介します。坐褥とは大型の座布団のことです。ですから単に「布団(ふとん)」とも呼ばれます。

先回紹介しましたように、坐禅では、お尻と両ひざとで三角形をつくって体重をささえます。お尻の下に敷くものが坐甫であり、両ひざの下に敷くものが坐褥です。通常の座布団は正座用としてつくられているため、「あぐら」や「結跏趺坐(けっかふざ:両足先を両腿のうえに組み上げる坐り方)」、「半跏趺坐(はんかふざ:片方の足先だけもう一方の腿のうえに組み上げる坐り方)」をして坐ると、両ひざが座布団のそとにはみ出してしまいます。そこで足を組んでいてもはみ出さないように大型に作られています。なお、臨済宗では、「単布団(たんぶとん)」とよばれて、より大きな敷物を折って使い、寝るときにはそれを開いて敷布団にするそうです。

 道元禅師が書かれた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「坐禅儀(ざぜんぎ)」には、「かつて釈尊の六年坐禅修行のときにも、ダイヤモンドの上に坐禅し、あるいは大岩の上に坐禅したという故事があるが、これはみな石のうえに草をあつく敷いて坐ったのである(かつて金剛の上に坐し、盤石の上に坐する蹤跡あり、かれらみな草をあるくしきて坐せしなり)」といわれています。お釈迦さまの坐禅にならう私たちは、坐褥をひいて坐禅をすべきなのだ、と言われているのです。

 短時間坐禅するのであれば坐褥がなくてもあまり関係がありませんが、長時間くりかえして坐る場合、坐褥があるかどうかでは、坐り心地に大変な違いがでてきてしまいます。天徳寺禅堂でも、少し前に、30枚ほど坐褥を新調して、より快適に坐禅ができるようにしました。ぜひ一度お試しになっていただきたいと思います。

2023.02.27 台所手帖

季節の仕込みもの 柿酢

季節の仕込みもの 柿酢

柿酢を仕込みました。11月くらいから、熟した柿を、瓶に入れて発酵熟成させています。熱湯で消毒したガラスの保存瓶に、洗わずへたを取った柿を入れます。皮一枚で内と外の境界を保っているような柿を瓶に入れるだけ。さらしなど布で空気が通るように蓋をして、様子を見ます。

最初のうちは発酵を促すために、つついたり、揺すったりして混ぜます。さらしを外すとふんわり柿の香りが漂っていたのに、ある時から炭酸ガスがぽこぽこと出てきて、かすかにアルコールのような、不思議な香りに変わります。少し不安になりますが、慌てない。収まってくると酸っぱい香りになり酢酸発酵が進んでいるな、と判るようになります。見守りを継続し、20日目くらいから使うことができるようになります。

上澄みを味見すると、果実由来の柔らかな甘みを感じられる香りのよいお酢になっていました。酢の物にはそのまま使えます。酢醤油にしてもよいし、塩もみした野菜のつけ床にしてもよいです。マリネ液や隠し味に酢酸菌の力をかりています。
 
柿酢は日本で古くから仕込まれている果実酢です。4世紀頃中国から酒の伝来と前後して和泉の国でつくられるようになった日本最古の酢「いずみす」よりも前から、作られ、使われていたのではないのか?と調べ中です。ご存知の方があったら教えてください。

あと、10年ものの柿酢は薬になると聞き、とても腑に落ち素直に納得したのでした。味噌もおなじ?!(10年経過した味噌や梅干しは大変貴重なのだと母は常々言っています)熟成する過程で微生物が働き、酵素によって分解されます。目に見えない微生物による発酵のたまものが体内に入ると、吸収されやすくすぐに働くことができるなど、腸の研究も進んでいるようです。

微生物、菌は熱を加えれば死滅してしまいます。しかし重要なのは、食べもののなかに菌自体が生きているかどうか、よりも、菌が生成した酵素やミネラル、栄養素がいかに体内に取り込まれるか、ということが大切。そこで、みなさまにお勧めしたいのは、少しの量でも味噌づくり、酢、醤油造りに挑戦してみること(醤油も作れます)ですが、そうもゆかない場合、選んでみてください。調味料を。静置発酵の酢、天日で乾かした塩、本醸造の醤油、砂糖は原料糖、みりんは本格本みりん、です。どんなに頑張って自分で調味料を仕込んでみても、やはり、歴史と伝統を守る蔵の調味料は違います。なので、つくるもよし、選ぶも良しです。なぜならそれらの調味料は、おいしいだけでなく、加熱によって微生物が働きを止めてもより確実にはたらいてくれるはずなのです。どのくらいになるだろうか、私は醤油職人さんの100㎖の醤油で、全国の旅をしています。おいしいお醤油と、柿酢があれば料理の腕があがったかと勘違いするくらい瞬間的にお味が決まるのです!