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2022.01.25 台所手帖

金柑

金柑

いつの間にか朝を迎えているように、新しい年を迎えることができそうです。ありがたいことだと改めて感じます。いつも難なく会える誰かと会えたり、会話を交わしたりすることが、実は毎回、一瞬ごとに最後になるのでないかと、根拠もなく思う今日この頃です。

 天徳寺は歴史的に長らく修行道場でした。400年以上もその歴史を遡ることができます。今でも、沢山の和尚様方が辨道(修行)のために出入りされます。そして、お寺を支えてくださる檀家の皆様と同じようにこのお寺は和尚様方によって保たれていることは、度々ご紹介しております。例えば、台所の責任者として一つの修業期間や、行持(ぎょうじ)を取り仕切ってくださるお役を典座和尚様といいますが、摂心会、開山忌、授戒会や眼蔵会の時とそれぞれに典座寮(台所チーム)が組まれるのです。そんな中で、用呂の祥雲寺様はつい数年前までお一人で30年天徳寺の開山忌を取りまとめてくださっていました。典座寮での教えを大切にしてゆきたいと思います。

先般、方丈さんの同安夏(修行の同期)の和尚さんが京都の亀岡から数日滞在されていました。何気ない日常会話で私の心に響いたのは「精進料理」という言葉。「自分は生活の中で頂いた食材や料理はなんでも精進料理だと思っている」と。覚悟のある言葉だと思いました。野菜だけの料理が精進料理、ではない、ということですね。気持ちのこもった「どうぞ」に対してそれを頂く覚悟。「例え、それがどんな食材、料理でも」「精進料理」そう言い切られるお姿がありがたく、ご紹介したく思いました。「あなたのために走り回って一生懸命用意しました。」これが「ご馳走」の意味ですよね。精進料理とは、命を繋ぐ「どうぞ」「いただきます」のこと。ご馳走と同じ。しかし、その食材や料理の中に、相手に、自分に、仏さまがあるのだ。そう感じた尊い瞬間がありました。
 

 季節の手しごとは、金柑を甘露煮。簡単にできるので是非お試しください。金柑は気の巡りを整え、体を温めます。喉に違和感があったり咳が出るときなどに有効です。

金柑の甘露煮の作り方

〈作りやすい分量〉
金柑800グラムに対して、
きび砂糖約400グラム弱を用意します。

〈作り方〉
金柑を洗って、縦もしくは横に包丁の角を使って切り目を入れます。2、3か所に切り目を入れたら、私の祖母は水に漬けて上下か左右に何度か押さえて種を出していました。鍋に金柑を入れ、ひたひたに水を張り、沸騰させます。一度茹でこぼして水を取り替えて一晩漬けおきます。次の日にゆっくり火を入れます。砂糖は、数回に分けて入れます。煮汁はお湯で割ったり、炭酸で割ったり、と活用します。苦味と酸味と甘味が調和していてなくてはならない季節のしごとです。

2021.11.12

お粥のこと

お粥のこと

空気が澄んで、秋の香りがします。一日の気温差が激しくなるので、体調が崩れやすい時期でもあると思います。空気が乾燥するので、空咳が出たり喉が痛くなったり、皮膚の乾燥が増したり、と秋に出やすい体の不調があります。今回は夏に疲れた胃腸を整える、おかゆ、をご紹介します。

永平寺では、約800年もの歳月、朝食の献立はおかゆ、漬物、ごま塩だそうです。修行道場では終始無言で食事をとらなければならないのですが、漬物には歯ごたえがつきものです。雲水さんたちのために、薄くきられた沢庵、無用な油がにじまないようにゆっくりすられたごま塩が粥とともに出されます。永平寺の開祖様、道元禅師は「食」について、調理責任者である典座の心得を記した『典座教訓』と、頂く側の作法を記した『赴粥飯法』を記されました。その中におかゆには、10の優れた点がある、と説く古い経典があり、引用されています。

粥有十利(しゅうゆうじり)

1.色つやがよくなる
2.力がでる
3.寿命が延びる
4.安らかになる
5.頭が冴え口中爽やかになる。
6.消化がよい
7.病気を防ぐ
8.飢えを満たす
9.渇きをいやす
10.便通がよくなる

皆様、いかがでしょうか。早速、お粥を作ってみようかな、とは思いませんか?病気の時、体調の優れない時だけでなく、出来立て最も良い状態で頂くお粥の滋味を味わていただきたいと思います。お粥の歴史は長く、乾燥保存した穀物を多めの水で煮込み、柔らかくし、温かく頂く方法として火と土器を使い始めた数千年前に遡るともいわれています。お釈迦様の乳かかゆの故事をはじめ、数多くのお粥に関する逸話があります。

 天徳寺では、秋の開山忌には毎年、お茶で炊いた「茶粥」を皆様にお振舞してきました。
お粥は、お米に対してどれくらい水を加えるかで仕上がりや呼び方が変わります。
お米一に対して水五だと、全粥と呼びます。水の割合が七だと七分粥、十だと五分粥と呼びます。水の代わりにお茶を用いれば茶粥、です。

 もう一つ、お勧めしたい粥があります。白米半合を三合の水で吸水させ、お粥を炊きます。昆布だし一合に塩と淡口醤油を適量加え、ひと煮立ちさせます。長いもと、あれば大和芋を30ℊづつ摺下ろして最後に加えます。盛り付けたのち、最後に青のりを、真ん中にのせます。養老粥のできあがりです。この秋、冬に炊きたての粥で、温まっていただければ幸いです。

2021.11.12 住職の徒然日記

新刊書『「現成公按」を現成する』のご紹介

新刊書『「現成公按」を現成する』のご紹介

翻訳に明け暮れた日々がようやく終わり、この度春秋社より新刊が出版されました。

『「現成公按(げんじょうこうあん)」を現成する』(奥村正博著、宮川敬之訳)

これは、日本曹洞宗の開祖である道元禅師(1200~1253)の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』のなかでも最も有名な巻である、「現成公按」巻を読解、解説したものです。原著は2010年にアメリカ・ウィズドム社から出版された英文書『Realizing Genjokoan』で、すでにフランス語・ドイツ語・イタリア語などに訳され、世界的に読まれています。このたび、この本が原著者の母国語である日本語に訳され、刊行されました。

 著者奥村正博老師は、1948年大阪生まれ。1970年22歳のときに、内山(うちやま)興正(こうしょう)老師の弟子として出家得度され、1975年の渡米。以後、三十年以上にわたって、欧米人とともに道元禅師の坐禅を勤め、その教えを解説・実践されてこられました。

すでに20冊以上もの英文著作を出されている奥村老師にとって主著というべき本が本書であり、ここには奥村老師のこれまでのご修行のエキスが織り込まれております。しかも、仏教を知らない欧米人にもわかるように仏教の基礎にたちかえった新鮮かつ実践的な解説で、日本語でも難解とされている「現成公按」巻の画期的な講読がなされています。

 私(宮川)は、20年前に奥村師と初めてお会いし、その誠実でもの静かなお人柄と、しかも仏法への揺るがぬ熱意、忍耐強さ、ご修行へのぶれることのない態度に対し、仏道の先達として敬慕してきました。五年前、本書原著に触れて、これは現代のわれわれに必須で、圧倒的な力を持つ著作だと知りました。

そこで、3年前の2018年、アメリカ・インディアナポリスにある、奥村老師が創設された三心寺(Sanshin Zen Community)にて五日間の眼蔵会(げんぞうえ)(『正法眼蔵』のある一巻を選び、それを読解参究する期間)に参加した折に、奥村老師に直接、翻訳を許可していただくようお願いをしました。奥村老師をはじめ皆様のご協力を得て、このたびようやくこの訳書を刊行することができましたのは、大きな喜びです。

 道元禅師の、そして曹洞宗の教えの基本となるのは「坐禅(ざぜん)」です。

この坐禅は「無所得(むしょとく)・無所(むしょ)悟(ご)の坐禅」といわれ、なにかの目的のためにする坐禅ではなく、坐禅そのものに入り込み、没頭する坐禅です(只管(しかん)打坐(たざ)〔ひたすら(只管)坐禅に打ち込む(打坐)〕)。

なぜこのような坐禅を、道元禅師はご自分の教えの根本とされているのでしょうか。また、道元禅師が書かれた膨大な御著作と、こうした「無所得・無所悟の坐禅」との関係はどうなっているのでしょうか。さらには、こうした坐禅でもって、われわれはこの困難な時代や社会に、どう生きよと教えられているのでしょうか。こうしたことに関心がおありの方は、ぜひこの著作を手に取って見ていただきたいと思います。奥村老師の日々のご修行から読み解かれる文面に、なにかのヒントを得られると確信します。

2021.09.03 お悩み相談

【質問】部活から引退しても勉強に身が入らず困っています。

  
【質問】
 中学三年の女子です。三年間部活動に頑張ってきましたが、三年となり、この八月で引退となりました。親からは、「さあこれから受験をがんばんなさい」と言われますが、そんなに簡単に切り替えられません。ずるずると引きずっている私を見て、「未練たらしいな」と言われます。私もそう思いますが、さびしくて仕方ありません。どうしたらよいでしょうか? (10代女性)

【回答】
 ご質問ありがとうございます。質問者さんは中学生なのですね。これまで部活にがんばってきたけど引退して、さびしい、気の抜けた思いをされているのですね。「受験をがんばんなさい」と言われても、そう簡単に切り替えられませんよね。でも、受験は近づいてくる、勉強しなきゃいけないし、でも身が入らないし、あーあ、というお気持ち、よくわかります。私も求められている原稿の締め切りが来ると、ぎりぎりとそればっかり考えて、さて書き終わって出版社に送ると、気の抜けたような一日を送ってしまいます。かつてはこれが数日続いて、お酒に逃げてみたり、ひたすら寝てみたりしていたのですが、どうも気分が晴れませんし、第一家族に迷惑をかけてしまうので困っていました。要するにリセットができなかったわけですね。
 
 こうした反省から今は、なにか原稿や仕事を一つ終えると、本屋さんに行って、全然関係のない本を見たりして一~二時間ばかり過ごすようにしています。できれば本屋さんは古本屋さんのほうが、時代的な脈絡がつながらない本を見られて、こうした時は特にいいですね。鳥取は古本屋さんが少ないので困りますが、「邯鄲堂(かんたんどう)」(鳥取市吉方)というレトロで素敵な古本屋があり、新刊書でも「定有堂(ていゆうどう)書店」(鳥取市若桜橋)はいろいろ視界を広げてくれる本がうれしい本屋さんです。少し足を延ばして東郷湖畔には「汽水空港(きすいくうこう」(湯梨浜町)という、これまた素敵な古本屋さんがあります。こうした本屋さんをめぐって、本を二~三冊買い求め、美味しい飲み物などと一緒に読んでいると、読んでいるうちに眠くなる(笑)。しばらく眠ってから起きて、それまでの資料を片付けてみると、新しい仕事に少しずつ入れるようになりました。

 これは私の例ですが、「リセットのための一日」というのを作ることをおすすめします。その日が終わったらそれまでの部活関係のものはいったん片付けて目の前から遠ざけるのもいいですね。うまくリセットできるようお祈りします。あ、「リセットの一日」をするときは事前に家族に伝えておくことがいいですよ。妙に心配されるのもストレスになりますものね(笑)。

2021.09.01 住職のおすすめ本

「菌の声を聴け」 ミシマ社

「菌の声を聴け」 ミシマ社

「菌の声を聴け」ミシマ社
渡邉 格・麻里子 著

 こんな話がある。ある老僧が言った。「虚空を掴むことを知っているかい」僧が応える。「知ってますとも」「やってごらん」僧は手で空中を掴む動作をした。老僧「ああ、おまえはやっぱりわかってない」僧「じゃあ、どうやって掴むのですか」老僧は突然、僧の鼻をつまんで力任せに引っ張った。「いたたたた!鼻が取れてしまうじゃないですか!」老僧「そうそう、そうやって掴むのだ」。道元禅師の『正法眼蔵』「虚空」巻に見える話である。

 渡邉夫妻の近著である『菌の声を聴け』を読んで、しきりにこの話を思い出した。夫妻は鳥取県智頭町で、野生の菌で発酵させてパン・ビールを作るお店「タルマーリー」を経営している。本書はパンとビールを作る過程を描きながら、夫妻自身の人生の反省と再生譚とも、会社の移転成功譚とも、社会変革の提案実践とも読める多視角的な本となっていて、非常に面白い。私は特にこの本を、「菌活」(渡邉氏の造語)という実践に根差した、一種の仏教的実践書として読んだ。

 たとえば次の箇所。「野生の菌による発酵は曖昧で動的だ。・・・動的なモノ作りにおいて職人は、日々現象を観察して経験を蓄積し、全体の関係性の中から直観的に最適解を導いていく。・・・すると職人は、大事な素材と一体化して作るモノを自分の分身みたいに感じるようになる」(86~87頁)。野生の菌を降ろして発酵を行おうとする場合、菌と職人というバラバラの個別なものの足し算ではなく、すべてがつながった大きな全体的環境のなかで、環境の一部としての菌を、環境の一部である職人が扱うという状況に自覚せざるを得ない。このことは結果として、職人自身をも含まれる全体の一部として、自分自身としての発酵を扱うということになる、というのである。さきほどの「虚空を掴む」話では、虚空とはさとりのことだが、僧は虚空を、自分とは別の、掴むことができる対象だと思っていた。しかし、虚空=さとりとは、僧自身をも含む世界全体のことであって、虚空を掴む(さとりを開く)とは、全体とのつながりのなかで存在する自分を掴むことだ。だから老僧は、自分自身を動的に、実践的にとらえてこそ、「虚空を掴む」としれ、と言ったのである。この逸話はそうした意味で、渡邉夫妻の発酵の実践(「菌活」)と照らしあう話であるように思っている。

 本書ではまた、「発酵を取り巻く環境は、単純な「因果」ではなく、複雑な「縁起」で捉えるべき世界だろうと思う」(85~86頁)とも言われ、『般若経』の「空(くう)」の教えや、「禅」の修行の要諦と照応する言葉も見える(巻末の参照文献では仏教学者梶山雄一氏の本も見えている)。こうした仏教と照応する知見が、モノづくり、地方からの生活スタイルの見直しに直結しているのを見るのは新鮮な驚きである。実は渡邉さんのお子さんは、智頭の森のようちえん「まるたんぼう」で私の息子の二年上のお兄さんだった。「タルマーリー」のチーズのパンが好みで、一家でよく食べている。お近くに優れた理論家=実践家がいらっしゃることはとてもたのもしい。