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2026.04.05

【質問】「安定」か「冒険」か

【質問】
10年間同じ会社で仕事をしてきましたが、30代半ばに近づき、自分自身の今後を考えることが増えました。今の職場は勤務体系や会社の雰囲気も悪くはなく働きやすい環境で、給与面でも安定しています。ただ、以前から興味があることがあり、それが仕事としてうまくいくかはわかりませんが、会社員を辞めてそれを仕事にしてみたいという思いがあります。もともと自分に自信がある方でもなく、これまでの人生でどちらかといえば自分の意見で物事を選択してきたことも少ないので、自分の中に浮かんだ思いに対して、自信が持てません。このような自分にはやはりそのような「冒険」は難しいのかもしれませんが、その挑戦の先にある「将来こうなったらいいな」という思いがどうしても頭に浮かびます。一歩が踏み出せない自分に、アドバイスを頂ければ幸いです。

【回答】
ご質問ありがとうございます。なるほど、「安定」か「冒険」か、ですか・・・。ちょっと乱暴なことを言いますが、一つの参考として聞いてください。
 身もふたもない言い方になってしまいますが、「安定」か「冒険」かと迷っていらっしゃる以上、「冒険」はおやめになるほうがよいと思います。「安定」を捨てるのはリスクが大きすぎます。そもそも、このように理性的に迷っていられるというのは、「安定」を土台にして、そのうえでいろいろと想像しているということです。そのような場合、「安定」は生活の土台をなすきわめて重要なもので、投げ捨てるべきではありません。「冒険」は趣味や想像の範囲でたのしまれるべきだと思います。
 しかし、人生にはそのような理性的な計算、判断がつかなくなるときがあります。どうしてもやってみたい、だれが反対しようが、どうなろうが、これまでのすべてを捨てさってもこっちをやる、という熱狂的な思いが膨れ上がったとき、どうするか。こうしたときには、もはや理性的な判断はききません。またたぶん、だれにどれほど止められようと、おそらくはやめられもしません。自分でもよくわからないまま、新たな道にとびこんでしまうことになるのです。そのように、新たな道へ行く場合には、理性的な判断とはべつのありさまが働いてしまうことが多いのです。
 おもしろいことに道元禅師も似たようなことを言われていて、僧侶としての修行とは「道に礙(さ)えらるる」ことだと言われています。「礙えらるる」とは文字通りには障害物となる、ということですが、それはその道が自分の目の前に立ちふさがり、他の生き方へと逸れさせないことをいいます。つまり僧侶としての修行とは、理性的に判断して入るものではなく、やむにやまれぬどうしようもないかたちで、それ以外にはないかたちで、入ってしまうのだということです。これは新しい道に入るときの、わけのわからないありさまをよく表しているように思います。もし、質問者さんがこのようなわけのわからない熱狂に襲われた場合、もはやその道を進むしかありません。だれのアドバイスも聞かないでしょうし、必要ともしないでしょう。先も見えない、イバラの道であろうと、進むしかないのです。当然「安定」などありません。困難ばかりでしょう。けれども、「幸せ」ではあるかもしれない。苦労もよろこびもひっくるめた、だれとも比較できないあなたの人生を、良くも悪くもあなたは生きることになるからです。よくよく、ご自身の思いに向き合っていただければと思います。

2026.03.30 住職のおすすめ本

保阪 正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)

保阪 正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)

第二次世界大戦、太平洋戦争のことは、もう忘れたい。三百万の日本国籍の人間が死に、数百万以上の日本国籍外の人間を殺した経験は、日本はもう、覚えていたくもない。戦後の日本人の多くは、無意識下に、そう思って生活していたと思う。

そうした思いがあったからこそ戦争を学ぶことを、私たちは無意識に拒絶してきた。実際、「失敗」とされる戦争の経緯や構造の概略について、学ぶべきだと思いながらも、私は心の底では知りたくなかった。とはいえ事実として、この戦争を経験し、生き長らえた人々によって、戦後社会は構築されたのだし、さらに戦争で死んだ人々を弔うことが、近代からのこの国の弔いの意味だった。つまりは戦争にまつわる生と死とが、私たちの社会の基幹にあることは、忘れる忘れないとは別に、事実としてあることなのだ。だから最近になってようやく、賛否の念はひとまず置いて、日本の戦争を学びなおさなければならないと私は思うようになった。

保阪正康の本は、こうした学び直しに適切な糸口を与えてくれるものであった。保阪の本では、最初に軍隊の機構の概略が示される。これは、現代のわれわれが知らない機構であり、しかも戦争の駆動の中心となったものだ。この機構の特性から日本の戦争の概略を教えてくれる本は貴重である。

また、戦艦大和轟沈を生き残り、名編『戦艦大和ノ最期』を著し、戦後は日本銀行で日本の復興を荷った吉田満の文集も、保阪の本のあと、あらためて読みなおし、現在も深く学びなおしている(吉田の文集の編集も保阪である)。過去からは逃げられない。過去を学び、それを携えて生きるしかない。おなじように、死者からも逃げられない。死者に学びながら、手を携えて、私たちは生きるしかないのだ。

吉田 満『「戦艦大和」と戦後』(ちくま文庫)の写真は、別途掲載いたします。

2026.03.04 台所手帖

開山忌のこと

開山忌のこと

 ご開山さまはもう400年もの間、このお寺をお守りくださっています。新しく仏さまになられた方をお迎えして、一緒にお守りくださっていると思います。何時からかは判りませんが両湯山のお母さん方と、開山忌の前日のお参り(逮夜)と当日(正当)のお振舞いを整えます。去年と今年は、大本山永平寺さまで20年近く雲水(修行僧)の食事を統括しておられた三好良久老師に来ていただき、天徳寺開山忌の典座和尚さまを務めて頂きました。方丈さんの修業の同期(同安居)である、和歌山の三宝寺さまの奥さまの朋子さんも来てくださいました。とても分かりやすく楽しくインスタグラムで三宝寺様のことをご紹介しています。その中に、天徳寺の開山忌のこともしっかり載せてくださっているのでぜひご覧ください。
 逮夜のお弁当は、ピーナッツ豆腐、生姜ご飯、漬物、かき揚げ、煮もの(干し椎茸、大根、人参)炒めなます、柿の白和え、旬菊ともやしのお浸し、リンゴと柿でした。当日は、ほうじ茶で焚く茶飯とつぎ汁、豆味噌で頂く野菜の煮物を約100食ご準備しました。逮夜の準備は一日がかりなので、お昼はまかないにカレーを作ります。今日はその精進カレーをご紹介します。

【開山忌のまかないカレー】
材料:野菜(ジャガイモ、ニンジン、タマネギなど)、しめじなどキノコ類、油あげ、厚揚げ、こんにゃく、ココナッツミルク スパイス(クミン、マスタードシード、カルダモン)→なくてもよい

 作り方
   ①こんにゃくを茹でて、はしなど穴を開けながらちぎる。
   ②野菜を炒める。(ジャガイモ、ニンジンを入れるなら先に炒めて火を通す)
   ③スパイスを油で熱して香りを出し、こんにゃく、きのこ類、油揚げを加えて炒める。
   ④ココナッツミルクと水で水分を調整し厚揚げを入れてルーなどで味を調える。

三好老師は厚揚げを入れるタイミングをとても気にしておられました。水分を入れてから、とのことです。崩れないようにとのご配慮ですね。ぜひトライしてみてください。

2026.03.04 お悩み相談

【質問】地球上の命のために自分の命をいかすとはどういうことなのでしょうか?

【質問】
昨年の寺市で、「人間はどうして誕生したのだろう、何のために?」という問いに対して、それは結局考えてもわからない問いであって、そのことで頭を悩ますより、与えられたこの命をどういかせるか、それを考えるのがいいと教えていただきました。とても納得できて、今でもその言葉を日常で思い返すことがよくあります。
 この地球上の命の為に、自分の命をいかすとはどういうことなのか、もう少し具体的に教えていただきたいです。

【回答】
ご質問ありがとうございます。前回の寺市も来ていただいたとのことで、感謝いたします。「地球上の命のために、自分の命をいかす」とは、とても大きな課題ですが、現代の世界の状況を見ても、喫緊の問題であると思います。仏教ではどう考えるのか、少し考えてみたいと思います。
 お聞きになったことがおありだと思いますが、釈尊の基本的な教えの一つに、「諸行無常」という教えがあります。これは、すべてのものが変化していて、永遠なるものはない、という教えですが、ともすると、「命には限りがあるということで、切ないこと」だと受け取ってしまいがちです。
 しかし「諸行無常」とは、「切ないこと」なのではありません。むしろそれは、私たちが大きな循環のなかにある、ということだと私は思います。私たちのからだやこころは、さまざまな要素によって組み立てられつつ、また分解し、吸収と排出を繰り返しており、循環のただなかにあります。循環のただなかで私たちは生まれ、循環のただなかで私たちは死にます。それは、自分の意志とは無関係でありながら、存在することの根本としてあります。それを仏教では、「縁起(つながりとして存在する)」「無自性(自分という固定された存在はいない)」「空(固定された存在がなく、すべてのつながりとして常に動きつつ存在する)」とも言うのです。重要なのは、この循環を、私たちは自分の知覚で捉えられない、ということです。海のなかにいると水が見えないように、循環のただなかでは循環が見えないからです。けれども私たちは、事実として循環のさなかにあり、循環そのものとして存在しています。私たちが呼吸をすることも循環であり、食物を食べ排出をすることも循環です。木々や植物が排出したものをとりこみ、私たちの排出が木々を育てます。つまりは、生きているだけで、呼吸をすることだけで、私たちは「地球上の命のために、自分の命をいかしてい」るといえるということです。私たちは存在しているだけで、「地球上の命のために自分の命をいかしている」のです。
 けれども問題となるのは、この私たちの吸収と排出とが過度になったときに、地球上の循環のバランスをおかしくしてしまっているということです。私たちが自分の生活だけをまもり、それを便利であるように進化させると、ものごとの循環を自分たちの都合で早めたり遅くしたり、止めようとしたりします。このことがいろいろな災害を生むのです。たとえばプラスティックごみが問題となるのは、循環しないからです。プラスティックは細菌によって分解されず、紫外線で分解して小さな破片として残り、人体にも残留してしまいます(マイクロプラスティック)。これは私たちが便利な生活を追求した結果です。また、大規模な石油の使用は、代替するものを与えられないので、循環を阻害してしまっています。こうした循環を見ない生活が、結局私たち自身にも影響を及ぼしているといえるのです。循環を阻害しないような生き方を私たちはすべきだと思います。

2026.03.04 住職のおすすめ本

奥村正博『いまを生きるための般若心経の話』(港の人)

奥村正博『いまを生きるための般若心経の話』(港の人)