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2023.11.25 住職のおすすめ本
伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫2015)
9月に講義の仕事があり、出張で愛媛県今治市まで行くことになった。それで、松山まで足をのばした。松山にぜひ行きたいところがあった。「伊丹十三記念館」である。伊丹十三(1933 -1997)の遺した8万点にもおよぶ品々を、その業績によって分類展示した記念館、というと、かたくるしく思われるだろうか。けれどもそこは、入ってみると一本の樹が植えてあるさっぱりとした明るい庭が目に飛び込んできて、その庭にはタンポポが自生し、それを四方から囲むように矩形の建物が建っている、神経の行き届いた、気持ちの良い場所であった。その内部も、伊丹の自宅に招かれたかのような、上質でこだわりがはっきりと見えながら、気持ちの良いものたちが上機嫌に迎えてくれる、特別の空間であった。設計したのは、伊丹の熱心な読者でもある建築家中村好文。この中村の、細部にわたる伊丹作品との照応を確認するのに、『集いの建築、円いの空間』は格好の案内書である。さて、伊丹十三とは、商業デザイナー、イラストレーター、俳優、エッセイスト、翻訳家、精神分析家、CM作家、テレビマンなどをつとめながら、そのどれにも収まりつかない巨大な才能の持ち主だった。50代になって『お葬式』という映画を撮って、それまでの経歴をすべて注ぎ込むように映画監督となり、デビュー作で大ヒットをとばす。その後、9本の映画をたてつづけに撮って話題となりさらにヒットをとばしたが、1997年、突然自死をして、その生涯を閉じてしまった。
『ヨーロッパ退屈日記』は、27歳の伊丹が、俳優としてイギリスにわたり、イギリス映画に出るためヨーロッパで過ごした数年間に見聞きしたことを述べた初エッセイ集である。のちのすべての伊丹の文章と同じく、一編一編が、すでに抜群におもしろく、こだわりがあってためになり、しかもよみやすい。けれどなぜだろうか、この本を読むたびに私は、せつなくなるのだ。そして一二編を読むと、それ以上読みすすめられず、本を伏せて、じいっと考えこんでしまう。これだけの大きな才能と、これだけのこだわりを持つ人は、どのように生き、なにを食べ、誰と会い、なにを作り、どう死ぬのだろうと、つまりは、その人の作品よりも、その人自身の生涯について、考えてしまうのだ。大きな才能に振り回されてしまう人間の、運命の不孝といったようなものに、痛ましい思いをしながら、けれど魅せられてしまうのである。
2023.11.25 お寺のあれこれ
お寺のあれこれ(応量器)
お寺のあれこれ(応量器)
京都には、「鉄鉢料理(てっぱつりょうり)」といわれるお料理を出すお店があります。黒い漆塗りの円い容器が大小いくつもならんで、そこにお野菜だけで作られた精進料理が盛り付けられているものです。テレビや雑誌などでご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
この「鉢」とよばれる漆塗りの黒い器は、そもそもは、お坊さんが托鉢をして、檀家さんから食物をその中に入れていただき、そこから食事をするための器です。現在でも南方の仏教国では、金属製の大きいボールをもって毎朝お坊さんが列をつくって托鉢しますが、その「金属製のボール」もこの「鉢」と同じものです。日本では木製の塗りの器を使うのが定着しています。
この「鉢」は別名、「応量器(おうりょうき)」とも呼ばれます。「応量器」とは、「ほしいだけの量に応じていただく器」という意味です。仏教のお坊さんはお坊さんになるときに、お師匠様からこの「応量器」を各自の備品として使うように頂戴し、生涯大事にします。日本の応量器は、大きな器は「頭鉢(ずはつ)」と呼ばれ、そのなかに小さめの器がいくつも入れ子状にしまわれています。食事の際には、この頭鉢から小さな器をすべて出して並べ、頭鉢にはお粥やごはん、小さな器には味噌汁やおかず、漬物をいれてもらいます。
曹洞宗の祖である道元禅師(1200-1253)は、こうした応量器の扱いについてのお作法を記した『赴粥飯法(ふくしゅくはんぽう)』という著作をあらわされました。そこでは、「食において好き嫌いをなくすと、仏法においてもさとりが開ける」という精神が掲げられ、実践の手引きとされています。高い精神性と具体的なお食事のひとつひとつがつなげられて、示されている、世界にも類がない本となっています。
坐禅堂では坐禅の姿勢で食事も頂きます。そのときに使われるのが「応量器」です。ほしいものはたくさん食べたい、嫌いなものはたべたくない、自分勝手にたべたい、という心を抑えて、作法に準じて、お食事を摂ります。仏教の教えを生きることとは、つまり、そのような高い精神性を、具体的な生活の一つ一つに実現することです。それが曹洞宗の教えであると思います。
2023.11.25 台所手帖
白木耳の糖水「銀耳梨蓮子枸杞」ぎんじなしれんしくことうすい
白木耳しろきくらげの「銀耳梨蓮子枸杞糖水」ぎんじ なし れんし くこ とうすい
寺市で、白木耳と梨、蓮の実、枸杞入りのデザートをご紹介しました。 白木耳は中国名を銀耳(ぎんじ)といい、もともと天然のものは産量が少なく貴重な食材でした。 清朝以降に宮中で知られるようになったそうですが、1980年代には栽培も可能になり、手に入りやすくなりました。白木耳は香港中心の広東料理では食後に頂く甘くて温かいスープそして頂くことが多いようです。そのスープには種類も豆類や穀類などがあり、いわゆる甘い汁物の総称が糖水。山西の人が酢を飲んだり、湖南の人が辛いものを食べたりするのと同じくらい広東の人は糖水を食べるそうです。つまり糖水は四季を通して生活の一部で、日本でいうならば、ぜんざいやおしるこみたいなものなのかもしれませんね。
最近は日本でもよく、アンチエイジングの美肌食材として白木耳を使った献立が紹介されています。水溶性食物繊維が豊富で、体内の必要な水分を増やし、肌にも潤いをもたらす作用が高い!(←ここが大切)きのこなのに寒天やゼリーのように変身する不思議な食材です。水戻ししてさっとゆでたくらいでも食べられるのですが、消化吸収、効果を得るならば柔らかく煮るべし、だそうで、高齢でも現役で治療に携わる中医師の先生方にとっても欠かせないのだとか。中国の家庭に留学されていた薬膳の先生が、乾燥で喉の不調が出た時に師匠の家庭で教わったという白木耳と梨を煮込むおやつのアレンジが、今回ご紹介する糖水です。最初のうちは、なかなかきくらげをトロトロに煮ることができず、随分と苦労したのですが「圧力鍋で煮てもいいよ!もう少し時間をかけて煮てみてごらん」という先生からの軽やかなアドバイスのお陰で上手に作れるようになりました。
お味はどうか、というと白木耳そのものは淡泊です。味も香りもあるのかないのか?ない?かも知れない。なので、氷砂糖で甘みを足し柑橘類で味を調えます。カラカラで黄色い湯葉みたいな白木耳は、水で20分も戻せば真っ白なプルプルの、かわいらしいともいえるような物体に変身します。そこからじっくり時間をかけて(2~3時間、圧力鍋で1時間)煮るとトロトロになります。その間に梨を切り同じく氷砂糖で煮ておきます。鳥取の梨はとても美味しく、丹精込めて育てられた梨に出会えるこの季節は待ち遠しいものです。梨はそのまま頂くだけではなく、すりおろしたり、調味料をまぜて料理につかったり。秋から冬にかけては、温かい甘酒とすりおろし梨をお好みであわせる、という鳥取的発酵薬膳飲料が気に入っています。梨の一番好きな頂き方は「切ってそのまま頂く梨に勝るものなし」なのですけれども、ほっと一息つきたいときのネルギーチャージドリンクとしての
HOT梨甘酒は最優秀賞ノミネート作品。
蓮の実も、最近は手に入りやすいので、乾燥蓮の実ならば水戻しして同じように軟らかく煮て、氷砂糖で下味を含ませるとよいおやつになります。生ならば、蓮の芯まで美味しい!!蓮の実はおなかの調子を整えたり心のバランスを整え不眠などを改善する効果が期待される食材で、栗やお芋をあわせたような味がします。潰して蓮の実あんにしてもよいし、スープやお粥に入れても美味しい。
白木耳に梨だけで頂いても、肺を潤し身体に潤いを与える食材なので充分効果アリ、なのですが今回は枸杞(くこ)と龍眼(りゅうがん)も一緒にご紹介。枸杞はゴジベリー。「日本にも自生のくこがあるよ」と中国は吉林省からお嫁に来ている知人に教えてもらいました。(最近餃子の皮づくりも習い、だんご汁→バックナンバー参照 だんご作りの要領と同じと知る)1日片手にひと盛り、約 20g 位食べ続ければドライアイや目の疲れを軽減したり老化症状を抑えることができるということで、自ら実践してみたら、リーディングクラス(老眼鏡)がなくても過ごせるようになりました。少しずつでも食べ続けることが肝心のようです。
龍眼という名のドライフルーツ、聞いたことがありますか?日本では最南端の鹿児島の植物園でしか結実しないという果実です。血を補いおなかをあたためつつ心を穏やかに保つ力を持つ食材で、ライチのような果物なのですが水戻しすると、大きな目玉のように見えなくもない。龍の眼、なるほどそんなイメージだわ、と納得できてしまうような果物です。龍眼と棗(なつめ)は元気の気を補うためによく使う薬膳食材で、棗は食材というより茶道のお道具として名が通っていますね。薄茶(抹茶)を入れる塗りのいれものを「おなつめ」といいます。茶道にはなくてはならないお道具なのに、今ではめったに生の棗を食べることはない。伝統文化入りして保たれてはいるけれど、なじみのない食材なのでは?と長らく不思議に思っていたのでした。ところが薬膳にであってからは棗や龍眼は元気を補う重要な食材で、お隣の韓国や中国ではとてもよく食されている果実だと知るのです。長年の疑問「よく使われるお道具に例えられる果実なら、棗は利休さまの生きた時代にも重宝されていたのではないか?」への答えが見つかったというわけです。大事に頂かれていたことでしょう。時間を見つけて茶会記など資料を調べてみなければなりません。茶事の献立に柿はよく記されていた記憶にありますが、はて。棗はあっただろうか。
実際、お檀家さまたちから棗も桑の実も「小さい頃には、ようおやつにしとったわあ~!懐かしい~!」との声をききます。なるほど。だからこそお元気で過ごせているのね!季節の野菜、果物をそのときどきに楽しめる鳥取生活は本当に幸せなものなのです。
ありがとう、鳥取。
いつか天然の白木耳で糖水を作ってみたいな、と願いながら今日はこの辺で。
2023.04.15
【質問】本を読むと眠くなります。どうしたらよい読書の時間になるでしょうか?
【質問】
本を読みたいと思って本を開いて読み始めると、必ず眠くなってしまいます。眠くならない方法があるのか、どうしたら良い読書の時間になるでしょうか?
【回答】
ご質問ありがとうございます。本を開くと眠くなってしまう、眠くならない方法はないか、とおたずねですね。正直言ってしまえば、読んでいて眠くなる本は、べつに無理して読まなくてもいいんじゃないか、というのが私のお答えです。私も本を読んでいるときに、よく眠くなります。眠くならず夢中になって1冊全部読み切ってしまう「良い読書の時間」などという体験は、ほんとうに数えるほどしかありません。ひどいときには、1頁を読んでいるうちに3回寝てしまったこともあります。あるいはまた、コップなみなみに入れたコーヒーを本の横に置き、ちゃんと起きて読むぞと決意したのもつかの間、寝てしまってコーヒーをなぎ倒し、机のうえはビチャビチャ、せっかくの本をコーヒーでまっ茶色にしたこともあります(実はいまもときどきやってしまいます)。でも、大丈夫。本はいやな時には、無理して読まなくてもよいのです(と思います)。読まなければならない時には、必要な本のほうからやってきてくれるものですから、読めない、イヤな本は読まないのが一番です(と思います)。
とはいっても、教科書だとか、マニュアルだとか、どうしても読まなければならない本もありますよね。そういう本を読むときはどうするか。私はそんなとき、とりあえず「自分のからだを通す」ように読みます。「からだを通す」には、本に直接、線を引き、欄外に書き込みを書き、頁の端を折ったりして、本自体に「ここまで読んだぞ」というしるしをつけて汚しながら、「食べてしまう」ようにして、ともかくも読んでしまうことです。眠ければ机から立ち上がり、ぐるぐる動きまわりながら、音読に切り替えたりして、とりあえず、文字を「自分のからだを通して」しまいます。こうした方法は、いま流行りの電子書籍ではなく、紙の本のほうが、ちゃんと物質としての手ごたえがあって向いているでしょう。書き込んで汚してしまうので、借りるのではなく買い求めたりコピーをしたりして、自分の所有にすることがいいと思います。苦労して「からだを通す」わけですが、ともかくも読んだ、といえる経験の力は絶大です。わからなくとも、なんとなく自分の身内のような親しみをその本に持つことができるからです。内容もふしぎなことに、いったん体を通すとなんとなく覚えているものです。これは「最後の手段」というべき読書法ですが、どうしても読まなければならない本があったら、試してみてください。
2023.04.01 お寺のあれこれ
警策(きょうさく)
警策とは坐禅のときに使われる棒のことで、曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と呼びます。樫の木で作られていて、全長は80センチから1.2メートルくらいまで様々です。指導者が使うのは、30センチほどの短い警策で「短策」と言います。
坐禅の際、「禅策(ぜんさく)」という係の人がこの警策を持って禅堂を回ります。眠ってしまっている者を起こし、姿勢が悪い者の姿勢を直すのです。曹洞宗で警策を受ける方法はつぎのようです。
1、警策が右肩に触れたら、合掌一礼し、合掌のまま、頭を前方左前に曲げて待ちます。頭を前方左側に向けるのは、耳を避け、肩の筋肉を打ちやすくするためです。
2、一発打たれたら合掌一礼します。
3、坐禅の姿勢に戻ります。
禅策のほうから打つだけでなく、坐禅している者からも、希望者は肩を打ってもらえます。その際は合掌をして待っていると禅策が打ってくれます。臨済宗では両肩を2回ずつ打ちます。しかし曹洞宗では右肩に1回のみ打ちます。曹洞宗の場合は、音を響かせることによって一緒に坐っている者も覚醒できるように、警策の先端部分が平たく薄めに削られています。
なお、よく世間的に、「警策は修行を怠けている者、眠っている者を罰する道具だ」という誤解を受けることがあります。しかし、それはまったくのまちがいです。警策は禅堂中央にすわっていらっしゃる文殊菩薩の手のかわりであり、慈悲の思いでもって叩くものです。おなじ修行者どうし、一生懸命坐禅できるようにと慈悲の願いでもって打ち、受ける者はそれを励ましとして受けているのだと、ご理解ください。なお天徳寺では、通常の坐禅会は原則警策なしで、坐っていただいています。